「あの人は確かにチルチルちゃんの仕えていた人、だけど……」
だけど、とニコは苦しく繰り返す。女はこちらにやってくる。強い風の中、乱れる花の中、動きや存在は一つも乱れていなかった。
「――ぼくらの、きっと、敵――なんだ」
チルチルの顔をニコは苦しみつつ見つめた。
迷える子羊の瞳と表情のチルチルは、ゆっくりうつむいていく。
ニコは何も言えずに一度項垂れてから、もう一度前を向く。
もうそこまで、赤い目は迫っていた。
「船虫さん……」
太望が呟く。その時、彼女は止まる。妖しい嗤いも、止まった。
「そう」
赤い唇は、声を出すと一瞬耳の先まで裂けたかに見えた。
「妾は船虫でもあり、イーノーでもある」
太望を見つめている。太望は見られている。
「しかし、今はそんな瑣末なことどうでもよいわ」
太望は恐ろしさから目線を何とか下げると、彼女が右手に何か水晶玉のようなものを持っているのに気付く。紫に発光し、彼女自身も紫の光に縁取られている。
「陽姫の魂の、五つ子……」
ぬうと左腕を上げ、太望を指さす。しかし殺気は彼だけでなく与一、スピカ、ニコ、そしてチルチルに向かっているのだ。
船虫でもあり、イーノーでもある女の背後の紫が、盛り上がる。それは女の形になる。長い髪、目を覆う目隠し、和秦の着物、そして梓の枝。
「今ここで、殺してやるわ!」
風が、轟いた。
「うううっ」
「きゃああっ」
全員が地にへばりつく。風が口を塞いでいく。息が出来ない。目も開けられない。チルチルの涙も風に飛ばされる。球体が崩れて雨のように飛んだ。
ニコの珠がこの強風の中でも光った。そして太望達の珠も続々と光り出し、少しだけ風が和らいだのに太望が気付いたようで、
「あの水晶玉じゃ」
と開口一番に言った。
「あれで風を、操っとると思う」
「よし、いくぜ!」
与一が手甲をはめ直し、スピカは血まみれの小刀を捨て、別のものに持ち替えた。
「チルチルちゃんは、ここでじっとしてて」
ニコがチルチルの憔悴した肩に手を置いた。こくんとチルチルは頷くが、その元気のなさにニコは戸惑い、戦線へ向かえない。
「ニコ君、無理しないで、気をつけて。チルは私が見ておくわ」
ネフェレがチルチルを立たせて風の弱まった一帯、大木のもとに二人は移動した。ニコは少しためらいながら戦いに身を投じていく。
「……チルチル」
未だ現実を拒み、ネフェレと目を合わせないチルチルに、ネフェレはやや苛立ったように言う。
「ねえ、まだわかってないの!」
「違う!」
チルチルは叫び、抱きついたのは大木の幹である。大木ももがくように風に揺れ、梢が苦しげに叫んでいる。庭で乱れ苦しむ花と、同じであった。
「わかってる――」
チルチルはまだ、ニコ達がもたらそうとしている自分の運命については知らない。しかしイーノーが自分の命を狙っていることは、こうして戦場から離れた今、揺れる大木の感触に気を紛らわせていても感じる。
「そうよ」
ネフェレの、ややほっとしたような、疲れ切ったような声がした。それがチルチルには辛く聞こえた。
「みんな、あんたを守るためにイーノーと戦ってるの。
イーノーの真の姿を、あんたも見たんだから、もっと安全な場所に」
もっと安全な場所? とチルチルは殺気の放たれる場所を振り返り見た。
風はあちらの方が強い。もはや花は花としての姿を失くし、価値を消している。
色彩は忽然と消えていく。残るは灰色の空、紫の光、そして弱くて黄色い光。
赤い、血しぶき。
チルチルは目を丸くした。ニコ達の頬や指先、腕といった肌に石や何かの破片が当たり、蒼黒いあざや、チルチルの目を引く赤が放出されていく。この強く吹き回る風自体も何かの危険を孕んでいるのだろう。息も出来ないくらいの風の中で、目も開けられない程の風の中で、彼らの攻撃はイーノーの玉にはちっとも、当たらない。
同じ珠を持ち、同じようなあざを持つ、遠い国から来た男達が何の抵抗も出来ずに傷ついていく。
チルチルは、体が熱くなる。
「なんで――」
呟き、そして叫んだ。