青い珠を右手に握りしめ、チルチルはニコのもとへと再び駆ける。珠の入った小箱を見つけた時は疲れがどっと出たというのに、青い珠のお蔭なのかみるみる内に体全体に力が湧いてきたのだ。
「ニコくーん!」
 入口付近でチルチルを追うかどうか迷い、結局待っていたらしいニコは喜び半分戸惑い半分の妙な顔色で彼女を迎えた。
「チルチルちゃん、その、平気?」
「ぜんっぜんへっちゃら!」
 何度か転んだのを見られていたのだろうが、チルチルは笑い飛ばした。
「これでしょ? ニコくんのはどんななの?」
 お互い手を開いてみた。チルチルの右手に青く光る珠、ニコの右手に金色に光る珠がある。
「色は違うけどおんなじね!」
「うん。じゃあチルチルちゃんは、本当に、青の姫なんだ……」
 体に紋章があり珠もあると聞いた時点で解っていたはずなのに、ニコは改めて認識する。姫という存在を、ぼんやりと見えていたが、最近は見えなくなってしまった陽姫しか知らなかった彼に、新たな印象をチルチルは与える。無邪気で強引で元気で、しかし優しく、ずんずんと前に進むエネルギーに満ちた姫。数日前に、青い花を見つけた時に感じた喜びが、再び甦る。
「チルチル、ニコ君」
「! ネフェレ」
 チルチルは振り向く。ネフェレは少し疲れた様子で、しかし穏やかに微笑しながら立っていた。二人は外に出る。チルチルは彼女に珠を見せた。ネフェレも安心したようだった。
 風が吹き、木々が揺れて葉擦れの音が三人の耳をくすぐる。自分達の周りを木が囲んでいるような程音は大きくなる。風が強くなってきて、頬に痛い。
「いやね。嵐にでもなるのかしら」
 三人はじっとしてもいられないので歩き出した。チルチルの庭でも、強風は場所を関係なく吹いていた。か細い茎の花々は、引き千切られないように地に這いつくばっている。かと思えば狂ったように風に翻弄され振り回される花もある。色彩が全て揺れていた。チルチルは心配で立ち止まる。何か風除けをしなければと体が疼いた。
「チルチルちゃん、何か飛んできたら危ないよ」
「うん――」
 一度ニコの方に笑ってみせてから再び視線を戻す。足元から徐々に視界を上げる。屋敷に焦点が合った時、彼女は見つけた。


 赤い目をした、主人を。


「おくさまっ?」
 ニコが、ネフェレがチルチルを見た。
 彼女の声は恐怖と歓喜と驚きが一つになり聞いた者を不思議に思わせる。
 そして、イーノーは妖しく笑う。チルチルに見せていたものと何ら変わらない笑顔は、光と闇ほど差のある感触でチルチルを襲ってきた。


 どこから現れたのか、弾丸のような速さで狼がニコの目の前を駆け、その牙がチルチルに向かう。ニコが驚いて何も出来ない一瞬のことだ。彼女の名前も口に出来ない程、彼の左手が獣の体に届かない程。その様子が妙にゆっくりとチルチルに見えた。危険が迫っていると信号が走ったのは、存外に遅かった。
 しかし、狼はチルチルのすんでのところで怯む。ギャンと情けない声を発し、己の脇腹の方へ攻撃の対象を変える。しかしまた叫び、もがいてチルチルへの軌道から外れた。
 チルチルは顔を覆っていた腕をどけ、閉じた目を開く。彼女の目に映っていたのは細身の人間で、薄い青の長髪が風に揺れていた。
 人間、とチルチルが漠然と思うのは、その人物が男なのか女なのか――顔はどちらかというと女性なのだが、体の造りは男性で、はっきりしないからだった。ただ、美しいというのは顔にも体にも共通している。右手に血まみれの小刀が握られていて、思わずチルチルは怯えた。しかし、この男とも女ともつかない人物に助けられたのだろう。
「あの」
 礼の言葉を言おうとした次の瞬間、その人物はくるりとチルチルの方を向く。鋭い目付き、深い青の瞳と白い肌の対照が美しく彼女には見えたが、表情は冷たい。人物は屈んだ。
「きゃあっ」
「与一さん、よろしく!」
 何をするかと思えばひょいとチルチルを抱きかかえて跳んだ。とても人間二人がただ跳躍したとは思えない程の軽さをチルチルは感じた。見ると、二人がいた場所に狼同士が激突していた。それを確認して二人の空中は終わり、すとんと地に着く。
「あ、ありがとうございますっ」
 頬が紅潮しているのが自分でも解る。その人物の美しさと跳躍の興奮だろう。
「怪我はない?」
 首を振る。その声は少し高いが男のものだった。彼はそうと言って立ち上がった。チルチルは彼に見とれている。彼は実際のところ果たして女だろうか男だろうかと思い胸がときめいた。
「スピカ兄さんっ」
 気づけばニコとネフェレのすぐ近くにいた。二人が駆けてくる。
「チルチル! もう、危なっかしいんだから」
「大丈夫、この人に助けてもらったから」
 チルチルが仰ぎ見る時、狼と一人で楽々と格闘している男がいることに気付く。細身の男が自分の名を名乗る。彼はスピカというそうだ。そして兄さんということは男の人なのだ、とチルチルは何故か感心した。世の中には女の人のような男の人もいるのかと。
「助けていただいてどうも、ありがとうございます」
「いえ」
「スピカ兄さんのお陰ですよ。僕、何も出来なくて」
 ニコが顔を伏せて落ち込む様子がチルチルには痛々しくてならない。
「そんなことないよ! ニコくんがわたしを最初に助けてくれたでしょっ」
 ねっとニコの両手をぶんぶん上下に振る。ニコは苦笑していたがチルチルの必死さに少し救われたようだった。

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