「出来ない……出来ないよお!」
顔を覆って、その脳裏に浮かぶのは優しい笑顔だけだった。
春の日に花を贈った、その見返りとしての笑顔。チルチルの小さな失敗を慰める微笑み。とりとめのない話を聞いてくれている時の大人びた笑み。そこには、怨霊となった女の姿などない。
母親のような、そんな存在だ。
いつもチルチルが、心の中にいつも大切に持っていた、
特別に笑っていたイーノー達が幻として霞んでいく。
――チルチルの泣き声の後ろにいるニコはただ、立ち尽くすだけであった。
本当はチルチルの肩を抱いて一緒に泣きたい。だがニコは、動けなかった。
ニコはまだ、少年であり過ぎた。
「わしにも出来ん」
突然、太望が言う。視線は彼に集まった。
「船虫さん。わしはお前さんの夫を殺したことを――それが偽りの夫だったり、
もしくは何か、お前さんが操っていた幽霊のようなものだったとしてもじゃ、
それでも、どうしても自分を許すことは出来んのじゃよ」
太望は拳をぐっと固めた。手に爪の跡が出来ていた。その衝撃の告白を与一もスピカも意外とすんなりと受け入れたようで動揺の声は上がらなかった。ただニコは戸惑っているようだった。太望は、赤い目から目を背けた。
赤い目の女は力なく嗤う。
「どうせ――お前はニコの父を――
義理の弟を殺してしまった時のことも悔いているのだろう。
今更なことよ」
与一とスピカは、さすがに声を漏らす。ニコは知っていたから何も言わずにいた。
「ふん。何が、悌の珠だ――」
イーノーの、船虫の――もはや玉梓と完全にすり変わった女の声は絶え絶えであった。
「殺せないのか。――やはり愚かじゃの、陽姫は」
太望は苦しく顔を歪めた。その時、ようやくチルチルは両手を下ろし顔を出す。赤く腫れた目は、玉梓となったかつての主人を、きちんと見ていた。
玉梓はそれでも、イーノーに戻ったりはしない。口を開けば、強い、怨恨の込められた声が飛び出る。
「そんな綺麗ごとばかりでは未来には進めん。
血に濡れ、血に泣き、血を流し、血を喰らい、血を分けて――
永遠に終わらない時を、我ら人は、刻むのじゃ」
血のように赤い目をし、こちらを強く睨む女は、しかし弱弱しくこう続けるのである。
「妾もそうして死んで――
血を分けた子らが、生きていくと、思っていた」
それを聞いて、スピカは思い出す。
玉梓の十二人の子供が根絶やしにされた、隠された血の歴史を。