気がつくと、俺は自分のベッドじゃないベッドで寝ていた。
 場所が俺の部屋じゃない。部屋の中央にベッドがあり、左側に窓があった。夢だろう。夢なんだなという意識がうっすらあった。
 窓は、開いていた。
 ぬるい風が吹いた。閉めようと思って、手をかける。しかし俺の動作は止まる。
 深い群青に塗りつぶされた夜空に、金色に神々しく光る月が浮かんでいた。
 満月に近いが、左端が少し欠けた月が、てっぺん近くで神々しくだが、決して大げさにではなく、控え目に、静かに光っていた。
 綺麗だ。
「綺麗ですね」
 女性の声が――香織さんの声がした。確かにした。
 俺は振り向く。でもそこには人影も何もない。月明かりに浮かぶ俺の影がただ見えるばかりだ。
 俺は焦るように部屋の隅から隅までを見た。香織さんはいない。いないけれど、ここにいるんだという確信がぐんぐん育っていく。
 少し落ち着いてから右を向いた。壁に、何かがかけてあった。俺はよたよたと動いて、それが何か確認した。
 カレンダーだった。おそらく十二枚綴りのカレンダーなのに、たった一枚だけが揺れている。
 九月、septemberとある。
 その文字を読んだ瞬間に、俺の体中にわき起こる思い出があった。
 九月、駅で偶然逢ったあの日。俺に、声をかけてくれたあの日。二人だけが車内にいたあの日のささやかな、しかし確かにあった思い出が体中を駆け抜けていく。永遠に二人だけの秘密となってしまったあの日が。
 品の良い笑顔。白い肌。静かな呼吸。彼女の家の心地よい香り。揺れる髪、影。優しい心遣い。
 俺と恋人を見送る小さな姿。
 月明かりと深い森に包まれている、あの人に関する思い出と、彼女への愛しさが駆け廻る。
 あの人だけと今、繋がっている。
 時と、空間と、奇跡を超えて。それがたとえ――夢幻であっても、確かに。
 好きだという気持ちが、事実が、俺をかき乱す。だから俺は泣いた。壊れるほど彼女の為に泣いた。泣いたってどうにもならないことは解っている。だけど、もうひとつ解っている。こんなぼんやりした夢で、はっきりと解る。
 この俺の夢の中で、九月は永遠に続いていて、彼女は生きていた。姿が見えないけれど――俺には解った。
 月はいつまでもいつまでも俺を照らしていた。
「……ええ、綺麗、ですね」
 見えなくても、確かにいる彼女に伝えた。
 空と月は涙で滲んではっきりしない。
 だけど俺は、彼女と同じ月を見ている。今度こそ確かに、同じ場所で見ている。
 この夢が、いつまでも覚めないで、永遠になってしまえばいいと――安らかに笑って、俺はただ、願った。

(了)

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