翌日、俺は普通に出勤していた。いつものように改札をくぐり、いつものように満員電車に揺られながら会社に向かう。会社の自動ドアも、エレベーターも、デスクも椅子も自販機の光も、そこに流れる空気も何もかも以前と変わらない。人一人死んだって、世界は変わらない。
 昼は屋上に出た。食欲がない。缶コーヒーひとつ、両手でくるんでいる。暖かいが、それにどこか白々しさを感じた。
 風が吹く。寒い。屋上から見る都会は総じて灰色だった。どんなに派手で下劣な看板でも、色が霞んで見えている。――もうすぐ十一月になる。すぐに年末だ。すぐに年が明けて、四月になれば年度も改まって……そういう容赦ない時の流れがあることを、冷たい風の中でぼんやり感じた。
 不意に、このまま冬になって、春が来ないんじゃないかと疑う。転落の季節だけを繰り返すようになるんじゃないか。上昇しない、枯れて、寂れた、モノクロームの世界。秋の紅葉や実りも、遺影に映ったように色彩を失ってしまう。そうなるんじゃないか。
 香織さんはもういない。
 受け入れるべきだから、そう考えていた。
 その事実を知る前のように黙々と仕事に打ち込む。部長や並木達は俺の顔を見て少し顔色を変えた気がするが、自分の顔なんて自分でわからない。無理に明るい顔なんてできやしないから、そのまま流していた。
 都築さんも心配そうに俺を見ていた。
 都築さん……彼女がいたからこそ、俺はあの場所へ向かえた。破滅どころか喪失が待っていた場所へ。でもだからといって、彼女を責めるわけにはいかない。もうどうにもならないことだった。
 責めるなら――もっと早く動けなかった、自分に素直になろうとしなかった俺を責めるべきだ。








 いつもと変わらない一日が終わる。あまりにあっけなく終わろうとしている。時間の速さに驚く感覚も、何ら変わらない。しかし何を食べても、飲んでも、あまり美味しく感じない。味を感じないのだ。時計は十時を指していた。少し早いけど、寝てしまおう。
 布団を被って、ゆっくり一日を溶かし始めた。
 そんな中――薄情だろうか――と、俺は夢と一日の境目で思う。
 香織さんが死んだというのに、もう会えないというのに、例えば会社を無断欠勤したり、電車に乗って終点までただ行ってみたり、急にどこかへ出かけてみたり――何の慰めにもならない些細なこと――しかし悲しみの所為でやらずにいられない、そんなことを、やろうとしない。明日も明後日も会社に出て仕事して、いつもと変わらない生活を続けていくだろうと思っている――俺は涙腺が熱くなるのを感じた。涙で目の縁が燃えるように熱い。
 彼女は死んだのに、悲しいはずなのに、俺は何で、いつもと変わらないように生きようとするのか。



 俺の想いなんて、格好つけたことを言って、何だよ――嘘だったのかよ。



 薄情で最低なやつだ――その罵倒が、その日の最後の記憶となった。

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