気持ちを入れ替えて仕事に集中することにした。前の企画が無事に済んだとはいえ、仕事は次から次へとやってくる。デスクに向かってテキパキ書類整理をしたり資料を読んだり、データを打っていく自分の姿が変に誇らしかったので、時々、茶を飲みながら一人ぼんやり笑ったりする。その笑いは、感情を押し殺して仕事に熱をぶつけるしかない俺を、もう一人の俺が嘲ったものだったかもしれない。
「部長、これ出来ました」
「おお、今回も早かったな」
 角刈りで大柄、企業マンというよりはスポーツマンのような佐伯部長が資料から顔を俺に向ける。人のよい笑顔が浮かんでいた。責任感があって人望も厚い上司で、この部署の誰からも好かれている。俺もよく食事などに付き合うことがあった。部長は俺の書類をざっと読んでよし、いいだろうと机の右側に置く。それからふと彼は真面目な顔になって俺を見つめた。
「どうしました?」
「いやな、新しい企画も、柳沢のお陰で滑り出しはいいんだが――」
「何か問題ありましたか?」
 いやいや、と手を揺らす。
「そんなことじゃない。無理はするなよって言いたいんだ」
 はあと俺は間の抜けた声で返した。部長は笑っているがどちらかというと苦笑に見える。
「無理、してるように見えました?」
「いーや? なんとなく、上司として、言ってみただけだ」
 俺も困った感じで笑った。
「なんとなくで言っちゃあ、実になりませんよ」
 そう言って俺は次の段階に取り掛かるための資料を集めようとすぐに踵を返したが、立ち止まる。誰かが見たら、どこかで忘れ物でもあったのかと思うような、そんな立ち止まりの仕方だった。もし忘れ物をしたというのなら、それは――今までの恋の思い出だろう。
 事実、俺は無理をしていた。無理にでも仕事を詰め込んで意識を追いやらなければいけないほど、やっかいなケースに恋をした。
 恋をした。暮葉の恋人の、香織さんに心を奪われた。
無論俺は普通に女性と付き合ってきたことは何度もある。たいがい三ヶ月とかで別れてしまう、そんな程度のものだったが、そこにはちゃんと情はあった、愛もあった。
だけど、香織さんへの想いをはっきりと自覚してからは、今まで感じたそれらの感情は「そんなもの」と軽い言葉でくくれるかのように、偽物めいたものに変わってしまった。同時に恋の思い出もあっさりと色褪せた。常識が変わったような、時代が変わったような感じだ。
 しかしその大きな波に乗ることはそう簡単に出来ない。暮葉がいる。暮葉の存在も、それなりに大きい。大きな波と、暮葉との関係と、この二つの間に入って平衡を保つためには何かで気を紛らわすしかなかった。「無理してる」くらい言われないと防げない大きな波――彼女への想い、彼女への感情を、俺はぽつんと立ち止まってただただ見つめる。

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