電話を挟んだ次元の向こうで、おそらく暮葉は笑っている。今、俺の目の前にいる幻影の暮葉のように。泣きそうで、顔の筋肉を後悔で歪めまくっている。それでも無理に笑っている。
 鼻水をすする音が聞こえた。
「俺に、――俺なんかに教えなきゃよかったのに」
 九月になる少し前、今では考えられない程生温く気持ち悪い風が汗腺をくすぐっていたあの頃に、もう始まっていた。あの日ここに来なければ――暮葉との関係もなんら変わらずに来ただろう。
 しかし俺の――暮葉というものに縛られない、俺であるものはもう、生まれてしまったから――今はもうそんなことは、考えたって仕方がない。
「お前に認めてほしかったんだ」
 声は曇って聞こえた。
「お前とはずっと一緒だったからな。
お前をいっつも俺は、振り回してばっかで、女のとこに連れてってもらってたし。
 これが最後だっていう暗号に、俺は香織の名前を言ったよ」
「……気付いてたよ。お前はいっつも、女の名前を言わない」
 あはは、と、静かで重い笑い声が暮葉の虚像を曇らせた。虚像はいつもの暮葉じゃない。勇猛果敢で清廉潔白だが――何かに臆病でいる、暮葉を見る者に暮葉を守らなければならない気にさせる、小さな子供だった。
「終わることが、わかっていたから」
 笑いといえないような笑いの最後に、奴は言った。
「最初から完璧だけど、終わる。
 俺の恋はそんなだった」
 恋と言った。暮葉は確かに恋と言った。重くて苦しい声の内に、恋の一文字を奴は忍ばせた。てっきり俺は――暮葉と香織さんは愛の形の一つだと思っていた。恋なんて小手先の干渉術が通れない、それこそ、完璧で美しくて聖なるもので――終わることなんてないと、俺を遠ざけるようなものだとずっと思っていた。
 だからこそ、俺は襲ってくる感情の波から身を引いた。暮葉の愛を奪わないように、暮葉のものには手を――。
「――伝えれば」
 俺は言う。頬が冷たい。だけど熱い気もする。風が冷却していく頬に、涙が流れたようだった。
 いくつもの俺の無念、捨てられた想いや感情、先走る焦燥がぐんぐんゴールを目指してそれぞれ体中を巡ってきた。ゴールは俺の涙の回路だろう。
「伝えれば――よかった」
 その想いを、感情を言葉で伝えればと、俺の目は涙を外に外に追い出す。想いが出なかった分、涙は溢れる。暮葉の泣き声や重い声や笑いは聞こえない。虚像がいつのまにか消えている。涙で滲んで見えなくなったのか。だが電話は切れていない。
「香織さんはお前のものでも、――伝えれば」
「もう、遅いよ」
 やけに子供っぽく暮葉は言う。子供の振舞いを見せる大人を、マセた子供が少し注意する、そんな感じだ。そう――俺は大人ではなく子供だったろう。
香織さんはいない。この世にはいない。
「――まだ、生きてるんだろ」
「生きてない。――どっか遠くの病院で死んだって、この前聞いた」
「そんなの嘘だぜ。お前が幻聴を聞いたんだ。だって死にそうもなかったんだろ、俺が見ても元気そうだったぜ。駅みたいな人ごみにも来る体力あったんだ。だったら……」
「うるせえ!」
 消えたはずの虚像が、一気に実像のようになって俺の目の前に迫った。
「死んだんだよ! もう燃やされたか埋められたかだよ! 死んだもんは戻ってこねえしそんな風に死者にひっついてうじうじうじうじ言ってたらお前の想いだとかそんなもん、ただのうるせえ雑音なんだよ!
 そりゃ言いたいさ! 俺だって幻だって! 香織自体が幻だったってくらいに! だけど、この手に感じたんだよ、生きてるって! それでも、もう死ぬなっていうのも、わかって、たんだよ……わかって……」
 暮葉の声から、溢れる想いと思い出が俺に眠る香織さんの像を肉付けていく。その中には俺の知らない彼女もいた。
 病院に立つ彼女、子供達に絵本を読む彼女、アロマを選ぶ彼女、風に揺れる花の香りのような、微かな、あの人の香りを、月の光を――脳を巡る全ての細胞が思い出す。
 もういないからこそ、それだけ現実感を増す不思議な回想を、俺は体験する。
 電話は切れていた。もう、暮葉からはかかってこないだろう。





 香織さんは死んでいた。
 もうこの世には、いない。





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