「ん、どうした?」
しかし、しばらく無言を貫いている。顔は伏せられていた。
「忘れないでほしい」
忘れないで、とやっと出た声はまた大きくなった。舘町がどうしていきなりそんなことを言い出すのか見当がつかず首を傾げようとしたが彼女は続けた。
「全部、今日のことも、今までのことも、全部全部、忘れないでいて欲しい」
そうして彼女は、俺の武骨な、少し日焼けした手を握手するように掴んだ。
「……本当は、帰りたくなんかないんだ。もっと、もっとたくさん、玉川と一緒に授業を受けたり、話をしたり、ギターを教えてもらったりしたかった。
このままずっとここにいたい。でも、駄目なんだ。出来ないんだ。
もう、行かなきゃ……」
か細い声だ。どういう意味で言っているのだろう、なんて変なことを考える暇もない。
舘町の縋るような言葉は、次々飛んでくる。
「忘れないで。ずっとずっと、私は覚えているから。
玉川が声をかけてくれたことや、優しくしてくれたこと、全部全部、本当に、すごく嬉しかった。感謝の気持ちも、喜びも、思い出も、今日の団子の味も月の色もギターの音色も、決して忘れたりしない」
湿った声が胸を打つ。彼女は普通の状態じゃない……そう気付いて思わず抱き寄せようかと迷ったが、逡巡しているうちに舘町は手を放して、一歩後ろへ引いた。
「だから、なんて言うのは我儘だけど……忘れないで欲しいんだ。私のことを。
どんなちっぽけな欠片になってしまってもいいから、忘れないで」
薄々気づいていたが彼女は泣いていた。俺をまっすぐ見つめるその表情は、月が濡れているようでひどく美しく、雅やかだった。俺は思わず手を取って、抱き寄せた。逡巡なんかしている暇も無かった。
彼女に何が起こるのか、ぎりぎりのところで気付きそうなのに、どうしてか絶対にわからない気がした。それが悲しかった。彼女を引きとめることは出来ないけれど、ただ俺は人間として、抱きしめることが出来る。
彼女の細い体が、俺の堅い体に重なっている。鼓動と体温がゆるやかに上がっていく。本当にただただ、こうしなければいけないと思ったのだ。
「忘れない。忘れるかよ。大体、そう簡単に忘れらねえよ。いきなり何言ってんだ、舘町」
彼女はごめんとも、悪かったとも言わなかった。拒否することもなければ、恥ずかしがる様子も見せない。ただしばらく俺の胸で声も出さず、静かに泣いていた。
月の光のもとで、俺達はそっと別れた。