「逆などではありませんよ」
 一瞬、何を言っているのか桂は判断をしかねた。

「汚らわしい記憶だからこそ、消すのですよ」

 記憶――ついさっきまで考えを巡らせていたものだ。かぐや姫のことか、と合点したが急にそら恐ろしくなった。何故だろう、不吉な予感だろうか。だとしたら、何を警告しているのだろう。桂は顔を伏せ唾を呑んだ。
 予感を振り切ろう、早く帰ってしまった方が、いっそ後悔も少ないだろう――顔を上げるとそこに使者はいなかった。桂の目前には丘と月光と夜の街が広がっている。

「そんなもの、持ち込まれては迷惑ですからね」

 突然のことで茫然としてしまい、彼がどこに消えたか考えることもしなかった。背後を振り返った時、もう遅かった。予感は形を持って、あまりにも残酷に現実に現れていた。彼が降ろした薄いベールのようなものを、かわす術は無かった。
 声を上げることも出来ない。だが心は断末魔を上げていたことだろう。忘れたくないと。帰りたくないと。
 あまりにも短い一瞬に、永遠は凝縮されていた。首飾りから解ける真珠のように、玉川樹に関する記憶が桂を巡る。これが最後だと言わんばかりに、非常に鮮やかだった。
 美術館でのこと、席が隣同士になったこと、何かと自分に世話を焼いてくれたこと、何気ない会話や挨拶や、教室での一場面。最後の記憶となる彼の家での月見、一緒に食べた団子、彼が弾いた音色、そして抱擁。
 記憶を持った桂から零れた最後の雫は、月の光に煌めいた。
 全ての景色がぐるぐると溶けていく。混ざり合った色は光を失い、やがて暗黒に変わった。




















 ここは? と月のように無垢な瞳をした少女は使者にそう訊いた。使者が地球の人間の世界ですよ、と優しく言いながら、少女に被せた羽衣をするすると巻き取るように戻すと、少女は少しだけ辺りを見渡し、不潔だな、と忌々しげに呟いた。
 月の光が当たっていても、人間界であるだけでこの場所はあまり居心地がよくない。着ている服も少女にとってあまり着心地のいいものではなかった。少女は何か言い知れぬ違和感を感じ、服の中を探った。手に何かが当たり、取り出してみた。月の世界の石だろう。人間界と月の世界の境界は、普段は堅固だが時に弱まることがあり、その度に石や植物といったものが人間界側に紛れ込むことがある。境界の作用によってか、何故か隕石という形で現れる場合もある。そういったものを押し並べて月の遺失物だとか、遺留品と言ったりする。

 それなのにこの石は、何故か人間の匂いがする。月の世界の気配は、ひどく微弱だった。

「それが十七個目ですよ。お疲れさまでした。さあ、早く月へ帰りましょう」
「……ひどく人間の匂いがする。気持ち悪い、汚らわしい」

 少女はいっそのこと捨てようと思った。だがしかし、これを何処かに投げ捨てて、別の十七個目を探すのは非常に不愉快だった。こんな劣悪な世界にこれ以上長くいたくはない。さっさと使者に渡してしまおう。少女は、捨てるように彼の掌に置いた。
 その時、ぴんと何かが彼女の頭に走る。光のような、音のような、香りのような、味のような、暖かさのような得体の知れないものが襲った。五感全ての弦を弾いて彼女を強く揺さぶる、そんな気がした。しかし、ただそれだけだった。
「どうかしましたか?」
「何でもない。もうこれで戻れるんだろう?」
 もう彼女の頭の中は、待ち構えている手続きの面倒さで埋め尽くされていた。もう人間界の何も見たくないとふっと目を閉じた。よくもまあ、十七ヶ月も過ごしてこれたものだと溜め息をついた。自分を褒めるべきなのか、呆れるべきなのだろうか。
 何があったかよく覚えていないが、使者が記憶を消してくれたのだろう。汚らわしい、忌まわしい記憶だ。月の世界に持っていけたものではない。
 段々、少女は眠気を感じた。そのまま目を開くことなく、眠りについてしまおうと身を委ねる。目を覚ませば懐かしい故郷に戻っているだろう。しかし彼女には急に、何だか懐かしいような悲しいような、得体の知れないものが、あえかなその感情には似つかわしくない程、強く込み上げてきた。
 何故だろうかそれは、月ではなく、忌まわしいはずの人間界により向けられている気がした。不思議だった。だが、眠りに堕ちればもう全てがどうでもよくなることを、少女はわかっていた。
 使者が自分の体を支えていてくれると気付いた頃を境に、意識は無くなっていった。


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