樹、起きなさいという母さんの声が夢の間を切り抜いて聞こえて、俺は眠気で重たい頭と四肢を呻きながら動かした。青色のシーツは朝日によって黄金にお色直しされていた。これが夏真っ盛りの頃だったら朝からむんむんと熱気がひどかっただろうが、秋の気配が段々夏の雰囲気を消してくれる今頃では、その頃と比べて朝は大分過ごしやすい。
 眠い目を擦り、どんな夢を見ていたっけなと、考えたってどうにもならない、取り留めもないことにしばし思いを巡らせる。けれど浮かんでくるのは意味をなさない景色の断片ばかりだった。また母さんの声が聞こえる。起きてるよ、と少し大きく返し、着替えようとベッドを降りた。
 母さんと父さん、二人は昨日、喫茶店――夜になるとほぼバーのような雰囲気に変わる行きつけの店でお月見を楽しんでいて、夜もだいぶ更けた頃に帰ってきた。酒も沢山飲んだだろうに、二日酔いもなくいつも通り朝の支度をする辺りさすがと言わざるを得ない。しっかりしているなあ、と何となく机の上に目をやった時、部屋の雰囲気から妙に浮いたものが視界に入った。

「なんだ、これ……」

 手に取ってみると、平べったい楕円形のミルク色の石がついたペンダントだった。形からして女ものだろう。当然、全く覚えのないものだった。扉を開けると、ちょうど朝練に出発しようとしている妹と目があった。

「おはよー、早くしないといい加減遅刻するよ」
「なあこれ、お前のか?」

 ちょっと振って示してみたけれど、妹は怪訝な顔をした。

「何それ? 全然知らないけど。ていうか、私があんたの部屋にもの置くわけないじゃん。
 彼女のじゃないの?」
「彼女いないし」

 寂しいよね、高校生のくせに、と軽く見下しの意味も含めて妹は笑った。妹は最近、同じ吹奏楽部の同級生と付き合うことになって、めでたく彼氏持ちという身分になったのだった。小憎たらしいとはこのことだ。昨日のお月見も部活の友達と一緒にすると言っておきながら、きっと密かに抜け出して彼氏といちゃついていたに違いない。
 俺の抱くむかつきがわかったのだろう、じゃあねえと紙パックのジュースをくわえ、妹はそそくさとばかり玄関へ走っていった。まったく、と俺はもう一度そのペンダントを見つめた。
 不思議なことに、初めて見たものであるとわかっているのに、胸に懐かしさが込み上げた。
 デジャブよりもずっと形のない、それこそさっき見た夢の欠片のように意味をなさない想いが、優しく頭を漂うのだ。

 きっと、何かがあったんだ。現実の世界でか、夢の世界でかはわからないけれど。それを思い出せないことが、ただただ申し訳なかった。おそらく、このペンダントの持ち主に対して。
 俺はその石をぎゅっと、だけど優しく握った。

 辺りには朝の空気が満ち満ちている。ここにもう夜の闇は無く、星が渡る空の海も無かった。
 それなのに、俺の手の中には月が眠っているように思えた。そしてその月には、とても大切に想っていた人がきっといるような、そんな気がした。




(了)

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