夜に眠る街は、まるで人工の水底に沈んだように不気味なくらい静かだった。自分の歩く音でさえ、その静寂をばりばりと凶悪に乱している、そんな錯覚を起こさせた。
 舘町桂は丘の頂上にやってきたと同時に、街を振り返る。沢山の人々が月の光のもとで眠り、あるいは活動している。こうして自分が見つめていることなど想像もしないだろう。それにしても、こんなにも街は暗く、月は明るかっただろうかと空を見上げた。もう一つの太陽と言わんばかりに、月はその全体図を豊かに晒している。その光が照らす、整えられた芝生が続く丘は、妖精が踊っていても不思議ではないくらい桂の目には幻想的に見えた。もう一度月を見上げる。この街にやってきた頃、昼でも懐かし過ぎたその衛星は、今はどこかよそよそしく、あるいは忌々しく映った。
 芝生の上に腰を降ろし、ポケットの中から、玉川樹から貰った石を取り出す。掌に転がして光を屈折させたり、ただ浴びせたり、無意味なことを繰り返した。月の世界のものであるそれは、彼の家に長年馴染んだせいであろう、彼と彼の家族の香りがした。人間界の物質と限りなく同一化している。嫌悪すべきそれは彼のものというだけでたちまち宝物になった。桂は愛しくなる。込み上げる愛しさは手を動かし、石をそっと包ませた。そして壊れ物を扱うようにそっとポケットの中に戻した。

 十七個目の月の遺失物として、それを取り扱うのは憚られた。まだ時間はあるだろうと桂は立ち上がる。玉川の言う通り、少し探せばそれなりにどこにでも見つかるものだ。それに気付くまでに大分かかったのだが、見つけ出すのは今の桂には造作もないことだった。

「何をしているんですか」
 丘を降りようと向きを変えた時だった。白い装束を纏った、桂と同様に体の色素が薄い青年が桂の道を塞ぐようにして立っていた。月の光のように穏やかな笑みが浮かんでいたが、桂にとって気分のいいものではなかった。
「発信機を人間に渡して行方を晦ましたつもりにでもなっていましたか? 桂」
 笑みが深くなるが、嘲笑だとすぐわかる。桂は眉間を顰めた。
「別に、そんなつもりはなかった」
 月の人間には、玉川に発信機を託した桂の行動も心情も理解できないだろう。体勢を整えて、桂はその青年と向き合った。桂、とやけに愛しげに呼ぶ彼は、桂のことをからかっているのだろうか。下の名前で呼ばれたことは無かったと言って等しいので、違和感に近い気味の悪さを感じた。
「たった十七ヶ月では、下の名前で呼ばれるほど仲良くはなれなかったでしょう。
 ましてや、汚らわしい人間とだなんて、想像しなくても身の毛がよだちます」
 青年はまるで桂の心を読んだように言った。かつての自分もそうだったから、否定はしない。月の人間なら当然の行動だ。

 自分は、月の世界の人間だ。目を伏せて、桂は己をそう認めた。
 玉川樹とは根本的に違う。自分の想いが最初から報われないものであることに歯がゆさと絶望を感じて今すぐにでも逃げ出したかった。だが、こうして使者が来ている以上、自分は帰らなければならない。あの天に浮かぶ夜の支配者の如き、月の都へ。
 罪に加担したと言い掛かりを着せられ、全くの濡れ衣だと懸命に訴えていたことが、随分昔のように感じる。苦労の甲斐あって何とか十七級という低い方の罪に至ったが、刑罰的には過酷だった。十七ヶ月間――正確には、開始から十七回目の満月を迎えるまで――人間界で暮らし、月世界の遺失物を十七個回収する。
 たった、と使者は言うものの、月の住人からすれば人間界ほど汚く住みにくい世界は無い。一時的に人間に近くなっているとはいえ、学生として人間世界に紛れ込んでの一年五ヶ月の生活は、月世界の刑務所暮らしよりも酷いのではないのだろうか。何度も体を壊し、授業を欠席していたことが思い出された。
 その上で十七個も回収するというのは、数は左程ではないが発見するこつを得るまでには大分かかるため、なかなかに難しいことだった。とにかく早く帰りたいと、街の博物館に忍び込んで一つ二つ盗み出したものの、危険すぎ、色々と騒ぎになるのが煩わしかった。忍び込むのはかなり前にやめた。目標を達成できなければ死ぬのではないのだろうか、と怯えて暮らしていた。いつも悪い体調が、尚更悪くなった。よく道で倒れることもしばしばだった。

 その頃だっただろうか、玉川樹と初めて話したのは。使者が何かまだ人間に対してぶつぶつ言っていたが、桂は彼から目を逸らし街の方を眺めた。蒼い夜の揺り籠の中で、穏やかに街と人々は寝息を立てている。まだまだ目を覚ます様子はない。
 人間となど、極力関わりたくなかった。それは情が移るからという意味では全く無く、ただ不潔で下等な存在だからという理由でだった。だが人間――玉川からすれば桂は人間にしか見えないので、そんなことは関係無かったのだ。一体、いつからだろう。最初は鬱陶しかった彼の言葉や思いやりが、次第に印象を変えて自分に迫ったのは。目を閉じてゆっくり考えようとしてもなかなか上手くいかない。自分が本当に人間だったのなら、景色が変わったところもその理由も、明確にわかるのだろうか。

 十七という、自分の刑罰につきまとう数字。忌まわしいそれさえも、玉川が接点を生み出した。最初ならばくだらない符号に過ぎないと一蹴した。だが今はどうだろう。そんな細かいところで、こじつけに似た部分だとしても、彼と繋がれたことに、つまりは偶然という運命の落し物の愛しさに震えてしまう。いや、きっと、それに気付いてくれた玉川への想いに自らが震える。あの時密かに浮かべていた絶望が発露した表情も、最初から存在しなかったように消え去った。だから、悲しくても笑って見せたのだ。


「聞いているのですか?」

 使者が若干苛々したように桂に言う。軽く首を振ると大儀そうなため息をついたが、彼は若干微笑みを戻した。偽物の笑みは桂には白々しく映る。
「気付いたんだ」
 月人に言ってもわかるまいと思いながら、桂は口を開いた。

「私に架せられた本当の罰に。さすがに、愕然とした」

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