何を言い出すのやら、と使者は可笑しそうに顔を歪めた。ほんの少し苛立ったから、桂は視界から使者を追い出した。

「人間に未練を残すことなんだ。愛しい人々の記憶から、自分が消え去ること。
 その事実に、苦しむこと。それこそが、本当の罰だ。かぐや姫とは、違う」

 押し寄せる涙の予感に言葉に詰まりそうになりながらも、桂はきっぱりと言った。

 自分がこの世界から、つまり玉川樹の元から離れることも確かに辛いが、それ以上に存在自体、思い出も記憶も、何もかもが無くなることがずっと過酷だった。夜が明ければ、彼は何もかも忘れている。忘れないと言ってくれたけれど、それが何の根拠もない儚いものだと、桂は知り過ぎている。だけど、そう言った彼の想いをどうしても無碍には出来なかった。だからこそ罰だと、強く認めた。

 何が罰なものですかと返ってきた言葉は、やや怒気と嘲りを孕んでいた。十分予想しえたことだった。
「我々が汚らわしい人間と仲良くなるなど、ありえませんよ。ここで十七ヶ月も暮らし、あげく探し物をすることが十分罰ではないですか。月の光が十分当たるここでさえも、私には苦しくてならないのですからね」
 そう言う割に、使者は饒舌だった。ちらりと桂は彼の顔を目の端に留める。彼は嫌らしい笑みを作っていた。それは桂の考えを愚弄している笑みと言うよりは、十分わかっているじゃないかと嬲るように皮肉る笑みに近かった。僅かに見ただけだが、無性に腹が立つ。
「ここに残りたければ、残ればいいでしょう? 止めはしません」
「……期限が切れて月人に戻れば、一ヶ月どころか一週間……いや、三日も耐えられないことを知っていて、よく言えるな」
 使者の顔は一層その皮肉な表情を強めた。桂は自分ですらすらとそう言ってはみたが、尚更未練に繋がれた想いが悲鳴を上げたような気がした。
 最初から、この世界とは絆など結べない。他でもない自分が認めたことが、ただ苦しい。彼を本当に想うなら、体が朽ち果てることなど関係ない。そのままここに残ればいい。彼を想う気持ちは確かなのに、それが出来ない自分の臆病と傲慢さをただただ残念に思った。
 自分に残されたものは、ただ一つ、玉川との記憶だけなのだろう。そう思いながら少し歩き、また夜の底の街を見つめた。玉川との記憶、と小声で反復する。しばらくぼうっと彼との思い出を辿った時、はっと桂は息を詰めた。

 かぐや姫の方が、ずっと辛かったかもしれない。

 彼女の方こそ、罪を償うことを忘れて貴公子と恋に堕ちたかったかもしれない。あるいは物語には描かれていない誰かを想っていたかもしれない。竹取の翁と媼のことも大事に想っていただろうし、当時貴族の娘の憧れであった宮仕えも是非ともしたかったことだろう。思えば、一つの物語に編まれるほど、彼女の周りには様々なことがあったのだ。
 忘れたくなんか、無かっただろう。たとえ彼女が架空の月の住人でも、自分と同じような心境にあるのなら。

 彼女はどれだけ、辛かっただろう。でもそんなことも全て、忘却の彼方だ。
 狡いと言った自分を、桂は恥じた。そして悲しく、目を伏せた。

「そうそう、あなたの会話記録を参照していたのですが」
 使者の声は藪から出る蛇のように、静寂を破って桂に届いた。会話、と聞き思い当たるものは玉川とのものだけだ。頬にさっと紅い花が咲く。感づかれないように平静を保って、使者の方を向いた。


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