「古典の授業に出てくる貴族とかも、こうやって月見してたのかもなあ」
 ギターを父さんの部屋に返し、そう言いながら戻ってきた。詩歌管弦とかさ、とよくわからないながらも言ってみた。穏やかな表情を浮かべ月を見上げた舘町は、どうだろうと首を傾げた。その時、少しだけ表情が陰りを持って崩れたように見えた。月に黒い雲が一瞬かかったかのように見えて、どきりと胸が鳴る。
 その時、タイムリーなのだろうか、竹取物語の話題が流れてきた。お月見イベントに出ている大学の演劇サークルに密着取材、という特集だった。独特の演出で知られるそのサークルは、竹取物語の演劇をするらしい。もう上演されている時間だろうか。

「かぐや姫ってさ」

 突然、舘町が喋り出した。手には食べかけの団子。欠けた月のようなそれをぼうっと見つめている。口を放したばかりだったのだろう、唾液が月の光にぬらぬら照らされている。何だか妙にどきどきした。
「……どうした?」
「かぐや姫は、自分だけ地上の記憶を忘れてしまった。狡くない?」
「え?」
 そんなことを訊かれるとは、今度はこっちが目を丸くする。
「普通、逆だと思う」
 こちらを向いて、だって、と一言置く。そして月を見上げた。
「月の世界から来た人間なんて、どう考えたって変な存在だろう。地球の人間達に何か妙なことを吹き込んだかも知れないじゃないか。月の技術とか、言語とか、秘密とかさ。そういうのって、知られてまずいものじゃない? 何事もなかったかのように、かぐや姫と彼女に関する記憶を人々から消すべきだったんじゃないか、と私は思う」
 それに、と普段に比べやけに饒舌な彼女は続ける。
「残された人達はきっと悲しいだろうけど、当事者のかぐや姫は、羽衣を着せられて、何があったか覚えていない。未練がないんだ。自分がどれだけ男達を振り回したか、どれ程おじいさんとおばあさんに愛されていたか、どんなに帝に無礼を働いたか……全部忘れているから、ちっとも悲しくなんかないってことさ」
 いっぺんに喋った舘町は欠けた団子をゆっくり食べた。何と返していいかわからず、俺はただ掌に団子を転がしていた。
「忘れられるのは、辛い。
 私は、自分が記憶を失くすか、周りの人が失くされるかっていう事態になったら、前者を選びたい」
 そうか、としか言えなかったのが何だか歯がゆかった。
「私は今、こんなに辛いから。でも……」
 舘町がそんなことを言ったような気がしたので顔を窺おうとしたが、何だか悪いことをしているなと、逆に俺が顔を伏せてしまった。特集はまだ続いているようだが、もう竹取物語の紹介はとっくに過ぎ去って、カメラとリポーターは団員達の熱い青春ストーリーを追っていた。
「……未練を残したくなかったから、かぐや姫は五人の貴公子にも、帝にも恋をしなかったのかもな」
 ころころ団子を転がして、俺は特に深い考えも無くそう言った。竹取物語のことは授業でやって、ワークブックの問題を解いた程度にしか知らないけど、誰かと劇的な恋に堕ちるロマンスもなければ、やってきた天人達と戦って勝つというスペクタクルもない。ただかぐや姫が地上で無理難題を投げつけ男達を困らせて、いろんな人に散々迷惑をかけた後、月に帰っていくだけだ。それも舘町が言ったように、何もかも全部忘れて。
 もし彼女が誰かに本気で恋をしていたなら、何とかして天人を打ち負かすことが出来たかもしれない。記憶を無くしたくなんてないだろう。愛する人を地上に残したくもないだろう。だけど特に思い残すことがないから、何としてでも守りたい記憶などなかったから、彼女は月に帰った。多分だけど。あるいは、さっさと月に帰りたかったのかもしれない。
 そこで俺は思い出す。確か手紙とか書いてたような、と団子を食べ咀嚼しながら思い当たる。
「ああ、不死の薬だ。そんなの残してたよな、帝に」
 舘町からの返事はなかったけれど続ける。
「なんだ、未練がないなんて薄情な奴とか思ったけど、なかなか人間臭いところもあるんだな。
 形見を置いてくなんて」
 なあ、と横を向く。
 舘町は何かに驚いたようにこちらを見ていた。月の光が宿る目がまっすぐこっちに向けられていたので、密かに心は高鳴った。

 二人して同じような驚いた顔をしているのかもしれない。二人して同じ想いを――何だろう? 友情のような、恋心のようなものを、抱いているのかもしれない。
 その真相は今、天に浮かぶ月だけが知っている。

 照れを感じて顔が赤くなる前に、なんちゃって、とおどけたように言って目を逸らしてしまう。あからさまな逸らし方に、彼女は傷ついたかもしれない。ちらりと横を窺うと、もう舘町はさっきと同じように月を見ていた。少し寂しい。
 テレビはモニターの向こうにそんな高校生の男女がいることを全く知らず、ただ出しっぱなしのエネルギーのように音声と映像をだらだらと流していく。すっかりお月見イベントの定番となっている、月見料理――うどんとかそばとか、オリジナル料理とか――の出店中継だろうか。もうこの出店の催しは十七年も続けているという。何だか別世界のことのようだ。よくやるよなあ、とこの街らしさに今さらながら何となく呆れた。

「十七」

 虫の音や梢の鳴る音、犬の吠える声、テレビから流れる様々な音。その溢れる音の中から何故か舘町はその数字だけを拾い上げた。
 十七? 今日は十七日じゃない。俺はまだ十七歳じゃない。何だろう。素数? もう一つ一をつけて時報?
「十七がどうかした?」
「……今日で、転校してきてから、十七回目の満月」
 そうなのか? と月を数えた。一ヶ月に満月が一回と単純計算し、去年の五月を含めて一つ一つ数えてみると、確かに十七カ月分の満月がある。それだけ、と舘町はやけに慌てて付け加えた。突然そんなことを言い始めたのもあるけど、そんな舘町の様子は少し可笑しかった。何か喋り出すきっかけを作ってくれたのだろうかと自惚れたくもなる。
「俺も、この名月を迎えるのは、今日で十七回目」
 それに付き合ってやろうと言ってみた。十二月に生まれた俺は計算すると今日が十七回目の名月らしい。勿論一歳とか二歳とかの記憶はない。今イベントに出掛けている母親達の、背中に抱っこされているくらいの子供達は、この静かな騒ぎをどう単純化して見つめているのだろう。
「だから一緒だな」
「……そう、だね」
 どこかたどたどしく言いながらこちらに顔を向ける。舘町は困ったように笑っているようにも見えるし、泣き笑いに近いと言われれば、そう見える。月の影が、うさぎだったり蟹だったり、ヒキガエルに見えるような、それと似ている。
 いや、舘町は断じて蛙ではない。かぐや姫だろう――なんて、随分気障なこと言えるなあとさすがに気分が寒くなった。そうしたら本当に寒さを感じてしまい、ぶるるっと鳥肌が走った。


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