太望はスピカが小屋へ向かったのを見送ると、来た道をゆっくり引き返した。
 少し坂になっているところを登っているその道中に、彼は出会った。
 雨にしとどに濡れた、最年長の男に。

 オーレがいた。

「雨に濡れて、待ってたね」
 彼は僅かに笑った。太望は口を呆けたようにぽっかり開けて、繊細な雨越しに見える男をただ見ていた。
「スピカ君が本当に女だったら、雨も滴るいい女だったかもしれないね」
 そんな冗談が、いつもより空しく、寂しく聞こえた。冷たく濡れた彼の顔は昨日の泣き顔を彷彿とさせる。残像が次々太望の脳裏に妖しく光った。
「オーレさん。お前さんは――」

 一体どうしたというのだ? 何に怯え、震え、そのくせ、どうして強がっている?

 そんな弾劾にも似た行き場のない想いは、目の前の相手にぶつけることもないまま、ただ太望の巨体の中にこだました。ぶつける勇気がなく、彼を想う慈しみの方が勝っていた。
 ともかく――太望は頭を下げた。
「すまんかった。殴りかかってしまって」
 傘を差していても、少しだけ濡れていた太望の髪から雫が垂れ、他の雨粒と同様に地へ落ちていく。
「気にしてないよ」
 顔を上げ、いつものように微笑しているオーレを再び見た。その顔が、太望には痛々しい。

「だって、僕のことは本当のことだもの」

 雨が全ての音を包み込んでいく。後には静寂が残る。二人の男が残される。オーレは続けた。

「僕は僕に呪いをかけている。
 それくらいの罰が当然な程」

 オーレは呪術師の家系だ――そう太望は思う。人を呪うのも、祝うのも、彼の仕事のうちだった。しかし――太望からしてみれば、それは大きな問題ではない。

「君もね、僕が何をしたかを知ったら、マーラの言う通り――」
「関係ない」

 オーレの飄々としているがどこか怯え、弱い調子の言葉を強く撥ね退けた。太望の人懐こい、丸い瞳にオーレが映る。雨に濡れ、呪いを被っているらしい彼がいる。
「そんなんは、関係ない」
 少し面食らったようなオーレは、自分の言葉を紡ぐのをやめたようだ。自分の語る番だ、と太望は口を開いた。太望の深くにあった眠れる恐怖を、紐解く。
「わしが彦星を――義弟を、ニコの父を殺してしもうたのは、事実じゃ。変えられん」
 太望の記憶の中で、昨日の残像より明確にはっきりと、その惨劇は存在していた。
 妹は狂った義弟に殺された。太望は義弟の首を斬りおとした。甥はそうして父と母を失った。血生臭くて、想像するだけで目を背けたくなる。
「それでも、オーレさんはわしらを軽蔑しんかったし、見捨てもしなかった」
 たとえそれが運命と、わざわざ断りを入れたものだとしても――オーレは残酷な悲しみにうち沈む、残された二人の手を取った。
「……おんなじことじゃあ」
 そして太望は笑って見せた。向いにいるオーレの表情からいつのまにか、虚勢を張るように貼りついていた笑みが無くなっていた。まるで目の前に、表情が正反対に映る鏡があるかのようだった。
「スピカさんも言っとったが、オーレさんはわしらの、一番上の頼れる兄貴じゃよ」
 彼の為の言葉だがしかし、オーレは顔をくいと伏せる。
「ニコが今まで無事に、あんないい子に育ってこれたんも、オーレさんという兄がおったからじゃよ」
 それでも太望は笑い続けた。オーレの表情はわからない。表情を見せることのないまま、オーレは水たまりに足を踏み入れ、波紋の広がる音を立てながら、またどこかに去っていった。

 そして雨の音と太望が残った。


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