微かに扉の開く音がしたので、カーレンはだるそうに首を動かした。
 すらりとした体が美しい、シュリが立っていた。カーレンを見て少しだけ気まずそうに目線を外す。
「少しは、落ち着いた? もうだいぶ時間も経ったんだし……」
 ほとんど足音を立てずにシュリは亡霊のような顔を見せているカーレンのもとに近づく。カーレンは何も言わない。力のない顔をしている割に口はきっと強く結ばれていた。
 寝台の脇の机に置かれた食事には、少しも手をつけた様子が無い。起きてから何度か食事を運んだが、出したのが勿体ないと思う程彼女は何も口にしていない。巫女をしていたというから、断食の修行でもした経験があるのかしら、とシュリは少々不機嫌に思った。冬の華北の食糧は乏しいのだ。
「せっかく、一大決心して華北を後にしたっていうのに、思った以上に早く戻って来て正直、あたし決まり悪いのよね」
 シュリは空しく笑い、首を掻く。それでも赤い目の少女は全ての表情を落としてきたかのように何の反応も示さず、視線を毛布や衣服の方に流していた。そのため、シュリは眉を顰めた。
「――やっと十二人揃ったっていうのに、また散り散りだし……まったく嫌になるわね」
 しかしほんの一瞬でそれを捨て、シュリは軽く笑って独り言のように言うが、やはりカーレンは時が止まったようにずっと、そのままだった。はあ、と隠すこともなくため息をついたシュリは寝台近くの椅子を引き寄せて座った。
 カーレンは、瞬きと呼吸だけしかしていない――シュリにはそんな気がした。
「ねえ」
 生きているのか生きていないのか、一見わからない程危ういところにいる彼女に、シュリは声をかける。
「――辛いかもしれないけど、もう少し、何があったか、詳しく話してくれない?」
 きっと彼女は話すまい――そう思っていたら、カーレンは口を開けた。

「あざが」

 声はか細く震えていた。そして無機質な色だった。

「私とシュリちゃんのあざの位置が違っていたから、陽姫は現れなかった」

 光が膨張し、そしてはじけた。シュリが少し目を閉じるだけで瞼の裏にはその映像が差し迫ってくる。十二人集まったからといって、復活はしないかと思ったが、まだ道はあるようだ。シュリは己の胸元に触れる。

「そのために――私が殺してしまった。マーラお姉ちゃんを――ううん、違う」

 私のお母さんを――とカーレンは零したが、口から出た途端すぐに空気に紛れて、シュリにはよく聞こえなかった。
 血に汚れただろう、狂気に痺れただろうとシュリは彼女の手を見た。その華奢な手が、ぴくりと動く。その動きに押され、彼女は口を開く。
「――それは、きっと、その……仕方のないことだったのよ」
 自分でも、何という頼りない妥協案だろうとシュリは思った。その気さえあれば、世の中すべてのことが詮無いことと言えてしまえるのに――と若干自分に嫌気がさした、その時だ。
「シュリちゃんは!」
 消えていくような声とは全く正反対の大声がシュリを貫く。数瞬間前からは考えられない怒号に近かった。突然だったので、シュリの鼓動は高鳴った。

「誰かの死を、仕方無いって! しょうがないって! それだけの言葉で片付けて、それで平気なの?」

 シュリは突き崩されたように語彙を失う。が、すぐに散らばる細かな、しかし切実な想いを頭の中で必死に集め言葉の形に成す。

「だって」

 シュリの声は、彼女も意外に思う程大きかった。扉の向こうにいるニコやチルチルにも聞こえてしまうだろう。ことによると双助達が様子を伺いに向こうにいるかもしれない。
 でもそれでもいい。シュリはただ思った。

 ――今、自分の言うことは、真理だと、譲れないと、固く信じているから。

「生まれた時から人間は、死ぬって、決まっているじゃない。
 これは誰も、神も超えられない、絶対なのよ! どうすることも、できないわよ!」

 カーレンはシュリをじっと見ていた。眉が僅かに歪んで、赤い目は少し潤んでいる。
「そのマーラだって、あんただって、あたしだってそうよ。
 生きている限り、誰だっていつかは死んじゃうわよ。そういう決まりなんだから。
 そうじゃないなら、呪われてるのよ!
 あんたはそれを、あたしたちの中で誰より一番わかってるんじゃないの?
 何をしてきたかあたしはよく知らないけど、あんたは巫女さんなんでしょ?」
「……呪われて」
 カーレンは呟いた。
 紫色の霧がカーレンの思考を囲む。言葉から想像出来るものは、自分達を呪う存在の玉梓であり、そこから導き出されるのはやはり、カーレンが尊敬し敬愛した存在だった。
「ほら、あんたといつも一緒にいた、あの、青い髪の、ほら、スピカくんだっけ――」
 そこにシュリの言葉が迷い込むことで、変化が起きる。かつての愛する人物が歪むように消え、現れたのは、青い髪の――同じ程愛しい存在だった。

「彼だって、いつかは死んじゃうわ」
「スーちゃん……」

 その名を呼ぶ。そして目を閉じた。何度零れたかわからない透明な雫がまた流れた。視界が暗闇になることで、思考の次元にいたあやふやな形だった彼の姿が、よりくっきり浮かんでくる。たちまち体の中心から熱い何かが零れ出て、カーレンを震わせる。

 そこで、カーレンは思い出す。

 海であざを見るよりも前。マーラの血が肌を点描するよりも前。カーレンが凶器を握るよりも前のことを。
 スピカの血が宙に舞った。彼が倒れた。
 何度彼を呼んでも――彼が還ってこなかった。いつもの、愛想のない声がなかった。

 自分を呼んでくれなかった。

      7 
プリパレトップ
novel top

inserted by FC2 system