二人手を繋いで、来た道を戻る。驚く程に亮は景色を覚えていなくて、だけどそれは英にしたってもそうであるらしかった。どうやって来ましたっけ、と何度も訊いて、だけどその度二人は首を傾げていた。少し進んだ先に記憶にない自動販売機がぼんやりとたたずんでいて驚いたくらいだ。が、あるいは来た道とは別のところを通っているだけなのかもしれない。しかし何にせよ自分と英、二人だけの世界ではないということも知って安心した。
 微かな稼働音と、夏ならば虫が寄って来たであろう蛍光を携えているその機械は、亮と英を一瞥したように思えた。そして何も言わず、誰かを待つように、あるいは何かを護るようにしてまた独り佇む。亮は英の分も小銭を入れ、暖かい紅茶とカフェオレを購入した。温かいのは今季初ですわ、と英は紅茶の缶を愛おしそうに掌で包む。
 二人は自動販売機からそんなに離れていないベンチに腰掛けて、さっそく喉と体を温めた。
「ちゃんと、お父さんとお母さんに伝えますわ」
 海外に行きたくないって、と句点を打つかわりにこくりこくりと紅茶を飲む英。
「でも、俺が今更こう言うのもおかしいけど、反対されるかもしれないぞ。今から何もかもキャンセルするのは難しいんじゃ……」
 自分が何とかして見せよう、と思う。実際には亮がするのではない。亮の家の力を使う。姑息な手段だ。けれどそれは最終手段でもある。とにかく、英の両親に考えを改めるよう亮から直談判する――それが、拙くはあるが最も有効な手段である。しかし英はこう言うのだ。
「あれははったりですわ」
「ハッ?」
「学祭の頃にはもうここにいないなんて、いくらなんでも早過ぎだと思いません?」
 可憐に小首を傾げても、今の亮には小悪魔の勝ち誇る様子にしか見えなかった。
「ばかやろう……」
 英にではなく自分に呻く。亮としたことが。最初に怪しい、おかしいと思うべきところではないか。季節的にもおかしいし、英の言う通り急すぎる。くそう、と尚頭を抱え続ける亮を見てしかし、英は微笑む。それは嘲笑ではない。はったりなんて、かける必要なかったですわね、と。
「私の言うことだから、信じてくれましたの?」
 瞬きを一つ、二つ。亮はあっさりと事態を受け止められたような気がした。ああ、そうか。そういうことなのか。英の言うことだから。
「独りでも大丈夫ですわ。ちゃんと、私の言うことを聞いていただきます」
「……ああ、お前は幸月家にとっては宝でもあるんだから」
 英も瞬きを一つ、二つ。そう言われると照れますわね、と頬を掻く。自らに秘められているポテンシャルを知らない彼女はあどけなく見える。まだ遠くには行っていない。そして、それが亮にとってはひどく愛おしい。
「……だから、学祭」
 だから? と首を捻る亮。けれどすぐに合点が行く。
「行きましょうね、絶対」
 ああ、と亮は頷いた。
 ――頷けること。会話があること。彼女が隣にいること。二人同じ空の下で暖かい飲みものを飲めること。そしてこの日々がずっと、可能な限り続いていくのだと亮は頷きと同時に、ほとんど直感に近い何かで知る。
 それは、季節がゆっくりと変わっていくことや、星空が動いていくことを誰に教えられるでもなく、何となく知ることに近い気がした。変わらないもの、真理を見つめるということ。何かをその一つに成せたということ。
 そして何故か、鳥肌が立っていく。ぐっと意味もなくカフェオレの缶を握りしめた。英が隣にいる。遠くではなく近くにいる。更には生きている、ということにさえも何故か震えを感じた。大袈裟だ。人知れず自分を笑って英にこう訊いた。
「じゃあ、クリスマスも一緒にな」
「あっクリスマスは駄目ですわ」
 即答だった。亮が知らず纏っていた神秘的かつ恍惚とした雰囲気を知らずに日本刀で一閃してしまったが如く。亮が浮かべていた笑顔は確実に固まっていることだろう。
「なにゆえ!」
「海外のお友達と約束してるんですの」
 ごめんなさいですわ、とウィンク一つする英は、ある意味並みの日本人カップルほどクリスマスを重要視していないような気がした。自分の方がよっぽど俗っぽい、と内心後悔する。そうだ。別にクリスチャンではないのだから、特別な日でも何でもない。
 そして、一つの事実に今更ながら気付く。
「友達、ちゃんといるんだな」
「ええ、勿論。……亮君のお友達程ではないかもしれませんけど」
「馬鹿。どんな人であれ、友達なんだから大切に決まってるんだよ」
 比べるもんじゃないって、と彼女のチャームポイントでもある額を小突いた。きゃっ、と可愛い声を出してくつくつ笑う。亮が思っていた程、彼女は独りではなかったのかもしれない。全て思い上がりであって欲しかった。
(勝手にどっか行っちまったのは、全部俺の方だ)
 どこか遠く見えたのも、全部自分がどこかへ行ってしまったから。最初から、亮が間違っていたのだ。余韻のように彼女の微笑みが胸に残る。未だ、英は微笑んでいるけれど。
「それじゃあね亮君、クリスマスのかわりに」
「ん?」
 二人は知らずと向かいあわせになった。だけどいい雰囲気を醸すには、二人は子供であり過ぎる。
 英は、にっこり笑った。
「来年のお正月も、節分かつ亮君のお誕生日もバレンタインもひな祭りもホワイトデーも花祭りも、いろんなイベントを、一緒に過ごしましょうね!」
「……花祭り?」
 確か釈迦の誕生日を祝う法要だ。
「クリスマスを過ごすのならこちらも当然一緒に過ごさなくてはいけませんわ!」
「いいけど、何すんのそれ。寺に行って甘茶かけんの?」
 持ち帰って飲むのもいいんですのよ甘茶は、とさも過ごしてきたかのように言う英。そんなに熱心な仏教徒だっただろうかはて、と首を傾げるが、まあどうでもいいことだろう。笑う英を見ているだけでいいのだ。
 じゃあ缶を捨てに行ってきますわね、と英は亮の飲んでいた缶をそっと持ち出し、暗がりのごみ箱の方へ駆けていった。彼女の姿をじっと見てきた亮には、暗がりの中でもちゃんと英が見えていた。
(よかった)
 そう亮は思う。さっきも思ったように、これからの日々に、英はちゃんといるのだ。どこか遠い存在としてではなく、鏡の向こうの世界なんかじゃなく、手と手が、乱れた髪と髪が触れ合える程近い存在として。再び震えを感じたが、もう握りしめる缶は亮の手を離れていた。代わりに、ぎゅっと、空白を埋めるように拳を包んだ。
 そうだ。今までの空白を埋めていこう。今から。これから。――英の帰りを待ちながら、亮は心に刻みつける。
 英が研究ご苦労様です、と誰かに言っているのが聴こえた。遠目かつ暗がりでもわかる、白衣を着た人影がどこかそそくさと去っていく。なるほど、と亮は頷く。おそらくここは理系の学部棟があるエリアなのだ。喜備達は全員文系だ。だったらこちらへ足を伸ばしたことがないのもわかる。
 そして英が白衣を着た学生あるいは講師か教授に声をかけたことにより、ますますここは二人だけの世界ではないということがはっきりと亮の頭に刻み込まれていく。何だかさっきまでのやり取りが随分恥ずかしく思えてきた。頬が紅潮していくのは気の所為だと思いたい。
「亮君!」
「わああ!」
「さっきの続きですけども! ……ってどうしたんですの大きな声出して」
「何でもない何でもない」
 続きはなんだ? と訊く。冷静になれと命令しながら。英は真意に気付かずただ微笑む。
「お釈迦様の誕生日を過ごすのなら勿論私のお誕生日も!」
「なんだ、そんなことか」
「まっ! なんだはないですわあ」
 もう時間が大分遅い。さすがに帰らなければ家の者も心配するだろう。だから亮と英は次第に歩き出していた。会話も段々、他愛のないものになっていく。数十分前はそれはただの記号だけの会話だった。想いが真に通じ合って、生きたものになる。
 亮はしばしば英の笑顔を盗み見る。そしてその度に満足する。満足したはずなのに、飽き足らずに何度も見る。これから、何度も見るはずのそれを。
 月に咲く一輪の花が――たとえ彼女の名前の通り、もう後に何も残さない運命を背負う花だとしても――傍にいてくれる、花びらに触れてくれるたった一人の誰かに笑いかけてくれることがもしあるのだとしたら、きっと英の笑顔がその笑顔なのだろう。
 花は月が抱く切なさも哀しみも淋しさも孤独も苦しみも吸い上げるだろう。けれど傍にいる、誰かの喜びも愛しさも嬉しさも強さも安らぎも吸い上げて、たった一つの花を咲かすだろう。

 その後に、果たして本当に何も残らないのだろうか?

「亮君、まんまるお月様ですわ」
「満ちてないよ。むしろ欠けてる。これからどんどん欠けてくさ」
「でも綺麗」
 一緒に歩いていたはずの英は数歩先に行く。先導するかのように月を見上げた。そして亮の方を振り返る。
 ――この辺りの街灯はやはり弱々しく、今日は残っている学生達も少ないのか、棟から漏れる光もやはり少なく、その為か、都会の空だというのに随分明るく月が見えた。そして月は、夜の世界を照らした。――かつて夜の世界の太陽として、月は重宝されていたことを思い出し、実感もした。そう、夜はこんなにも明るいのだ。
 英全体の輪郭が光と共に浮かび上がる。日光よりも強烈な光、ではない。ただただ優しい。穏やかで、夜の世界においては暖かく、当たり前のように明るい。

 昼間の太陽のように。

「亮君」

 あるいは、月に咲く彼女のように。

「帰りましょう」
 ああ、と、手を伸ばす彼女の手をそっと取った。

(随分冷えたんだな)

 だけどどこか暖かい。愛しさに似た熱。
 二人の月と太陽はこの日から、本当の意味で、互いに巡り始めたのだろう。亮はきっと、そう思いだす日が来ることを信じて英と歩き出していた。

(了)

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