白い花。ほのかに光り、淋しくこちらを見つめる。
 月のかけらのような花弁に手を伸ばす。だがどれだけ伸ばし、手を丸め、広げ、指先に力を入れても、向こう側に届かない。どうして。どうして。
 やがて白は闇へ同化する。透明度をどんどん高めていく。終には何も残らなくなる。
いやだ、そんなのはいやだ。
 離れないで。
 傍にいさせて。




 四人は図書館を出た。太陽のしっぽの最後の光が僅かに西の空に残るだけで、天空はぼつぼつと星が現れ始めている。しかし学内の街頭がそのほのかな煌めきを奪う。それでも夜の艶めいていく息吹を失くせない。すっかり暗くなっちゃったね、と喜備は困惑した声で言った。
「俺達がいつの間にか寝落ちしてただけで喜備は悪くないって」
「でも、暗いし結構寒いし、二人ともまだ小学生だし、お家の人に……」
 言いかけて喜備は口を噤む。でもまだバスあるから大丈夫だよね、とすぐ取り繕うが、英のことを意識しているのは明らかだった。少なくとも亮の目からは。英のことを知らない美羽はそうそうと頷く。自分の家庭のことを知ってしまったと知らない英も心配なさらなくても大丈夫ですわ、と明るく返した。だが、あ、と英は声を上げる。喜備よりもずっと自然に。
 亮にはどこか予感があった。何かが起こるようなそんな、不安にも似た何か。
「いけません、私、図書館に忘れものをしてきたかもしれませんわ」
 ぱんぱんと制服のあちこちを探ったりはたいたりする英。演技に見えないそれに美羽は目をやや丸くした。
「あら、携帯とか?」
「そうかもしれません」
「それなら私達も引き返すし一緒に……」
「いいえ、ご心配には及びませんわ。美羽さん達は私達に構わず、帰宅なさってください」
 明らかに子供な身分の英がそれを言うのはどうなのだろう。亮はそう思いもしたが、私達、と英は言った。英と亮のこと。英の顔を見る。ちょっと付き合ってくれませんこと、と顔は語っている。
「……大丈夫。帰る時は家の者呼ぶからさ」
「さすがお坊ちゃまね」
 亮はしっかりしてるから大丈夫か、と非常に今更なことを言ってしまった自分をどこか可笑しがるように美羽は頬を掻く。それじゃあね、と控えめに手を振った喜備は不安げな目でこちらを見ていた。自分は喜備にどんな目を向けているだろうか。亮自身では確認できない。
 建物の角を曲がり、二人の姿は完全に見えなくなる。くるりと英の方を向けば、英は申し訳なさそうに目線を逸らしていた。それでも微笑は残っている。人肌のぬくもりのようだった。ふと、微笑を絶やさないという点で春龍を思い出すが、彼のそれとは違う。どうしてか、感じられるものは淋しさだった。
 夢が残した最後の暗示を思い出さざるを得ない。ぼんやりと光を宿す白い花。今の英はその花ととてもよく似ていた。
「何であんな嘘ついたんだ」
 携帯電話の振動の音が英のスカートのポケットの辺りから漏れ聞こえてくる。亮が今発進した電波を彼女の電話が受け止めている。
「……携帯を忘れたとは言ってませんわ」
「お前はちゃんと、出したもの全部、買ったものも、俺とのメモも全部、鞄の中に入れてた。俺は見てたよ。それに、英はそんなそそっかしいことをするような奴じゃない」
「よく、見てますのね」
 まるで他人事のように言う英に違和感を覚える。どうしてそんな風に言えるのだろう。それを言うなら、英だって亮のことをよく見ているに違いないのに。もう少し歩きたいですわ、と英は返事も聞かず先へ進む。
 彼女は昼間の明るさを、もうどこかへ沈めている。そう感じた。ここはもう夜の世界。まだ少しくらい学生の姿が見えてもいいのに、周囲は英と亮以外見当たらない。二人だけの空間。生きるもの全てが絶えてしまったかのような世界。途端に亮は恐怖を微かに感じた。ただ気まぐれに歩く英を必死で追った。
 ほんの少しの短い時間を歩いただけの学内。大学全体からしてもごく一部に過ぎない。英は完全にでたらめに歩いているのだろう。普段そう感じることはないが、猫のようだなと思った。歩きながら時々こちらを振り返って、亮を確認すると何も無かったかのように再び背を向ける。
「亮君」
 不意に彼女が呼ぶ。
「ここでのお祭りはどんな感じなんでしょう」
「え……」
 質問の内容も不意打ちだった。だが、学祭に二人は行く約束をしている。
「そりゃ、学生達の模擬店とか、文化部やサークルの発表とかバンド演奏とか、あと講演会とかディベートとか……とにかく賑やかなんだよ」
 そうだ。一月もしないうちに学祭がある。大学全体の下見に来たつもりが、全然そうはならなかった。けれど購買でのことも図書館でのことも、全然悪くはなかった。英とゆっくり時間を過ごすのは本当に久しぶりのことだったからだ。
(何で久しぶりだったかって……)
 どことも知れないところを目指す英。亮はただ彼女に従うしかない。
 英の背中は何も語らない。けれど予感はある。
(俺が、喜備たちやケンと会って、遊んでたからで。……英はその間、学校に行ってたり、海外に行ってたからで……)
 英はその間独りだったのだ。
 そのうち二人は大きな階段を昇る。街灯の明かりは老朽化しているのだろうか、今まで見てきたものより光度は弱まっていたが、けれど冷え冷えとして英の頬を照らす。
「亮君」
 また彼女が呼んだ。歩みを止めずに。まもなく頂上へ至る。
「……何?」
「……何でもないですわ」
 ただ亮からの返答を望んだだけの、短い会話。いや、会話にすらなっていないのだろう。いつもだったら、英は何でもないと言うだけでも天真爛漫に、可愛さを炸裂させるように言うのに、周りが完全に夜の世界だったからだろうか。彼女のあらゆるものは萎んでいた。

 いや、夜だからとか、そんなことは関係ないのだろう。
 もはやもうどうでもいいことなのだ。
 ただ、繋がりという記号を求めるだけの会話になってしまったことが、そう言っている。

(……まさか、そんな)

 遠くに感じる。英も、夢で見た白い花も。
 遠い所にあるのは、終わりの場所のはずだ。どんなものにも終わりがあるから。

(でもまさか)
 けれど、否定するには予感が勝っていた。

 階段の先はとある広場であるようだった。何度か大学を訪れている亮も来たことがない。街灯の光はやはり老人の目のように生気が微かで、弱い。亮達が立っている石畳も脆く、少しでも蹴ったら崩壊が始まりそうだった。申し訳程度に散在している草や花も、夜目でもわかる程度に萎びている。吹く風は乾燥し、けれど凍てついていた。だけど不思議と寒さを感じることはない。かわりに壮絶な淋しさの気配が肌を撫でていった。時間から置き去りにされたような空間に、ただ完全なる形をもっているのは一つだけだ。天上にある、あの日から少しずつ満ちてきた月だった。
 英が振り返る。月明りを浴びた彼女は一輪の花だ。
 凛として立ち、亮を見つめる。そして亮君、と呼んだ。
 変わらずに微笑みを浮かべていた。凛としていてもそれはどこか儚い。触れたら消えてしまう。朝になれば、見えなくなる。
 言葉の欠片が彼女から堕ちてくる。
「学祭、楽しんでくださいましね」
 零れた言葉。それはさっきの質問のように虚を突くものだった。学祭? と一瞬疑問に思ったがそれもやはり幻や儚い何かのように消えてしまう。亮は、わかってしまう。予想のままにしておきたい。けれども確信という見えない質量を纏い、亮を攻める。
「……どういうことだ?」
 それでもそう訊き返してしまうのは、怖いから。

「――私」

 彼女と離れるのが、怖いから。
 彼女を遠くへやってしまうのが、嫌だから。

 冷たい風がまた一陣吹いて、埃をどことも知れぬところへ連れていく。彼女の言葉を遮ることはなく、彼女自身を連れていくこともない。けれど彼女は行ってしまうのだ。

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