帰宅後、何事もなかったかのように英からメールが届いた。可愛らしい素材を文面に沢山張り付けた賑やかなメールは、強がりか孤独の裏返しにしか見えない。だけど亮は何も言えなかった。蒸し返したくなかった。後ろめたい想いを隠しながら淡泊なメールを送り返し、何通か電子のラリーを続ける。
 大学祭に行こうということもちゃんと提案した。そこで返ってきたのはこんな文面だ。
『なら一度、三国大学へ下見に行ってみませんこと?』
 亮は何度も大学の方へ足を運んだことがある。亮自身は今更だったが、英にとってはそうでない。学祭の時はぐれてしまうかもしれないし、それもいいか、と承諾の返事を送った。返ってきたのは楽しみにしていますわという一文とハートマーク。その後にそれではおやすみなさい、と幾分控え目に――画一的なフォントでその機微がわかるはずもないのだが――書かれていた。亮は就寝準備をし、ベッドに深く身を沈めた。

(好き、か)

 夜の闇の重みに沈められたような部屋が、何故かその心の呟きにしん、と音を立てたような気がした。本当に静かだ。あるいは無音だったのかもしれない。無音の音。喜備の言葉がその奥底から静かに甦ってきた。
 きっと喜備は、亮の好意を本物と認めてくれたのだ。英のことは一時間にも満たない程度の付き合いだったが、亮との付き合いはもう半年以上にも及ぶ。だが数分だろうが数十年だろうが人の事など容易にわからない。けれどそれと同じ近さで認めることは出来る。亮はそれに遠慮なく寄り添う。多分それが信頼というものだ。
 だけど、全体重を掛けることは出来ない。自分の中にある、英への想い。何かがひっかかっている。それは素直になれないということだろう。それは臆病ということだろう。そしてそれは見栄ということでもあるだろう。だがどれも違っているのかもしれない。全てに共通しているのは、それらは全て自分自身に関係している、ということだ。
 そこに英はいない。それが恋だと言えるのだろうか。亮はため息をついた。これでは相手のいない遊びをやっているようなものだ。独りでじゃんけんをしたり、独りでアルプス一万尺をするような。何だよそれ、と自分のことながら呆れて笑った。
 寝返りを打つ。背中の方からじわじわと眠気が昇ってくる。目蓋の裏に浮かんでくるものがあった。真珠のような月だった。もう夢を見ているのか、と亮は僅かに残る意識で苦笑した。
 月に花は咲いているのだろうか。微睡みの中で亮は思う。誰もいない、空気も音もない寂しい石の海の傍で、揺れることもなく花が咲いている。どこから種子がやってきて、どのように根を張り、茎を伸ばし、開花してきたのか。それを誰も知らないし、知ろうともしない。けれど亮は知りたいと思う。
 その花は花弁全体が月光のような薄い光を放っていた。光は穏やかだ。かつ優しい。見ているだけでもどこか郷愁や母性に近い切なさや安心を得る。けれどもその花はひどく寂しい。あんなうら悲しい、生命の鼓動もない、惑星ですらない大地に、その花はただ独りだけでいるのだ。月の地にはきっと寂しさや哀しさや切なさというものが層になっていて、あの花はそれらを吸い上げて光としているのだ、と言われたら信じてしまいそうだった。きっと実際そうなのだろう。
 亮はその花の傍に行きたいと願った。その花は種子をつけることはない。ただ一本限りの花だ。そのことを誰に言われるでもなくわかっていた。得るものは何も無いのだ。誰かがそんなことを言っていたような気がする。けれども亮は進んだ。人間は得てして、何かを得られるから何かをするというわけではない。功利目的で友達を作るものでないように。打算的な野心を持って人を愛することがないように。

 それは本能でもエゴでもない何かだった。
 亮は花に触れた。

   4    
みくあいトップ
小説トップ

inserted by FC2 system