「海外へ、独り、行くことにしましたの」
 こんな時に、笑い声混じりで。
「学祭の頃にはもう」
 だけどその偽りの声は、急速に萎んでいく。
「ここには……」
 ここには、と繰り返すだけ。完結しない言葉は互いの間で補われて宙を漂う。英は深く顔を伏せていた。亮の予想は当たっていた。けれど亮は顔を伏せることはなかった。だけど現実を受け止めきれない。呆然とした心持で、口を動かす。
「どうして」
 全身に満ちた気持ちが成すのはその一言だ。どうして? 何故? 何で英独りがこの国を、この街を去るのだ。
 わかる。わかる。亮には英の後ろにある意図がわかる。追放し、かつ縛り付ける精神の糸。見える。見える。だけどそれは、英自身がどうにかすれば切れるもの。亮にだって、断ち切れるもの。
「これから、立派な研究者になる為には、出来るだけ海外で経験を積んだ方がいいですもの!」
 亮君だったらそれくらいわかりますでしょう? と顔を上げた彼女に貼りつくのはやはり偽りの笑顔だった。亮はそんなもの見たくない。
「お父さんもお母さんも、兄さん達も姉さん達もそう言っていますの。あ、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも!」
 どこまでも作りものの笑顔を崩さない。仮面のようなそれ。だけど笑顔は何かを偽る為にあるものなのだろうか。好きという言葉が決してそうではないように。
「幸月の為に、日本や世界の為になるなら……なるなら、私」
 作り物の笑顔なことくらい、簡単にわかる。
(わかるよ)
 自分にはいつも、本物の笑顔を、英は向けていてくれたから。
「私、喜んで――」
「行くなよ」
 亮の言葉が、英の声をもぎ取るように遮る。自分でも半ば驚いていた。英は急に笑顔が崩れる。戸惑いすらも浮かぶ余裕がない。
「何で、何でそんな無茶なこと、承諾出来るんだ」
 一つの線を越えれば、決壊してしまいそうな声で、英に近付いていく。声だけでなく、足で。彼女と亮の距離は縮まっていく。
「お前も俺も、まだ何の力も持たない子供なんだ」
 この半年強の期間で亮は嫌という程それを自覚した。それ以前は、亮と英、二人でいれば大人以上だと思っていた節もある。でもそれこそが幻だったのだ。夢であり、逃避でもあったのだ。
 ――だがそれは、今は些細な理由にしかならない。そんな客観的な意見から止めたいわけでは、決してない。なのに英は戸惑いの表情をちらりと見せた後、それを塗り替えるようにやっぱり笑うのだ。曖昧なそれ。言葉は届かないのかと思う。
「同じ大学に行くって」
 一歩、また近付く。
「同じように勉強するって」
 一歩、二歩。英は後ずさりをしない。
「言ったのはそっちじゃねえか」
 英との距離は縮まっていくのに、けれど英は動かない。同じように移動すれば、月も同じように移動する。確かに近付いているはずなのに、けれど、永遠に近付くことは出来ない。ちょうどそんな具合に。
「俺のこと好きだって言ってるのも、英の方なのに。いつも、言ってるくせに。
 なのに、何でそっちから遠ざかっていくんだ」
 思い返せばいつもそうだ。亮は握りこぶしを一つ作る。指先が冷え込んでいた。
「お前は、いつだって俺より先に行く。年も、身長も、遠くへも、寂しささえも」
 まるで自分を置いていくように。求めるのはいつだって彼女からなのに。
「何で」
 なんで、なんでなんで。その皮肉な光景が様々に空気中に幻視される。なんでなんで。亮は呻く。徐々に視線は落とされていく。だが英の姿は視界にちゃんと入っていた。しかし急に目頭は熱くなってくる。まだ泣くべき時ではない。
「だって……私は、私は、家族の、皆に……」
「だっても、何も、ないだろう!」
 反発する亮の声。快活さが削ぎ落とされた英の声は、亮にこう問う。
「じゃあ何で」
 僅かに震えた声が亮のわななきを止めた。
「何でそう言うんですの」
 それはこっちが訊きたい。英の意図が掴めない。
 何で、ともう一度落とされるそれは涙が染み込まれていた。
「亮君は……」
 久しく聞かない彼女の嗚咽。久しく? 亮は己の記憶に問いかける。
 彼女が泣いたことなど、あっただろうか?
「別に、亮君だって、私のこと、なんて……」
 私のこと。彼女はそこから続けない。だけど、続きに何を言いたいかくらいわかる。
「私の、こと……」
 苦しさに押し潰されたような声は、もう聴きたくない。亮は握りしめた手を解放した。
 そして僅かな距離を、駆けた。
 冷たい風が頬に張り付いたのはごく一瞬。数秒後に亮は空気よりずっと暖かなものを抱きしめていた。
 彼女と久しぶりに再会したあの日。彼女の第一声と共に、亮に捧げられた抱擁。それよりも強く、彼女に想いが伝わるように。
「亮……くん」
 喜備にもこうやって抱きついて、そして抱きしめられたことがあった。だけどそれよりもずっとずっと近くに鼓動を感じる。嘘偽りない、彼女の裸の意志をそれは伝えている。自分よりも少し背の高い彼女。まるで泣いているような鼓動。そして、彼女は本当に泣いているのだ。微かに触れた頬で、そうわかる。
「お前は、いつだってそうだよ」
「え……?」
「いつだって、俺のこと、勝手に決め付けて。俺のことじゃなくても、何でも勝手に決めて、勝手に作って……」
 独り遊びより性質が悪い。向こう側に相手がいるのに。
 相手がいるのに、一人でやる遊び。独りでやるじゃんけん。独りでやるアルプス一万尺。英に恋しているのかどうか、悩んだあの日に浮かべたものが急に思い出される。亮はその幻想の遊戯にぽつりと答える。
「俺は、お前の傍にいたかったんだ」
「……亮君?」
「今も、過去も、これからも、英の傍にいたいんだよ」
 そうだ。傍にいたい。その想いこそ、自分と英を繋ぐ、この恋の正体。
緩めかけていた腕をもっと強く彼女に巻き付ける。苦しいだろうに英は抵抗しない。むしろ、亮に全身を委ねている。
 同情。あるいは憐憫。あるいは偽善。他者が見ればそう言うのかもしれない。弱気で臆病な心では、それらのラベルを貼ってしまうだろう。だが、その呼び名ではない。結局は単なるエゴに過ぎない。けれど、ただ純粋で、そしてまっすぐであった。亮自身の想いは強く強く輝いていた。月よりも、太陽よりも。まるで、生きること――つまりは本能と同じくらい、力強く。
 たとえ彼女が実のならない花で、誰もが見捨てたとしても。彼女が今よりも醜く、それでも家族に見放されていたとしても。

 あらゆる可能性の世界で、あらゆる彼女が孤独でいても。

「俺だけは、傍にいたいって、そう思ったんだ。……思ってるんだ」
 どんなに彼女が苦しがっているかもわからずに。彼女の涙を止めることも出来ないのに。それこそエゴなのに。自身の半分が語りかけてくる。けれど亮は、抱擁をやめない。
「どこにも行くなよ」
 彼女がどこかへ独りで消えてしまう。想像してついに、雫が姿を見せる。堪えていたはずのそれを、亮は隠そうとはしなかった。
「行くなよ」
 涙の中で、英の香りは芳しい。そして暖かだった。光が香りを持つならば、きっとそのまま彼女になる。
「亮君」
 ただ亮に委ねていただけだった彼女が、僅かに動く。拒む動きではない。亮をそちらに引き寄せる動き。二人の持つ暖かさが加算されていく。亮君、とまた呟く。それは依然として涙の色をしていた。
「俺は」
 大事なことをまだ言っていない。英ばかりが言っていた言葉。英ばかりがしていた抱擁。

「お前が、好きなんだから」

 二人の物理的な距離は、これ以上縮まらない。そんな場所で、言葉が伝わらないわけがない。想いも、届かないはずがない。
「お前が、本当は俺のこと好きじゃなくても、俺はお前のことが好きで、ずっとずっと傍にいたいんだから」
「本当ですわ」
 わかっている。即座にそう返したかった。けれど亮は、本当はひどく臆病だ。
「私、亮君のこと、本当に本当に、恋している意味で、大好きなんですのよ」
 亮君がいるなら、と囁く。秘密の言葉。見えない言語。今日交わした文通のように。ここには二人以外の誰もいないのに。
「亮君がいるなら、私、生きていけるの」
 虚飾に聴こえる丁寧語を外した彼女の声。聴き慣れていないけど随分と自然に、亮の耳に注がれた。そしてそのまま、彼女の方から強く亮は抱きしめ返された。
「亮君」
 月の光のような声が聴こえる。それは泣いてはいない。微笑みだ。亮の大好きな彼女に繋がる、あの笑顔の声だった。

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