亮が店を後にしようとすると、喜備も一緒についてきた。送ってくよ、と暖かい微笑を向けられれば、断るのも無碍と言うものだろう。亮の方も、独りで歩きたくなかったから丁度いい。
「英ちゃん、のこと」
 訊いてもいい? と隣の彼女は優しく尋ねる。
「ごめん」
「あ、話したくないなら全然……」
「違う。そういう意味じゃなくて」
 はあとため息をつく。まだ息が白い程の寒さではない。
「……ごめんって言いたいのは、英の方で」
 喜備に言ったって、何の意味もないのにと嘲笑う。喜備は肩を落とし、けれどぎゅっと彼の手を握った。暖かい。心地よい。どこか強張っていた亮の言葉の袋は、穏やかに弛緩し始めていく。
「俺に似たものなら、俺じゃなくてもいいんだって思ったら、何か急に腹の奥底から、黒くて禍々しい、変な炎がゆらゆら立ち上ってきた気がして……でも、それは見た目よりも勢いが激しい、熱が高いってわけじゃなくて、なんかどこか」
 切なくて、悲しくて、やりきれない気持ちだった。言いながら亮は繋ぐ力をいくらか強めた。喜備はうん、と相槌を打つ。
「あんな風に言うつもりなかったのに」
 唇を緩く噛む。自然とやるせなさが込み上げてきて、いつの間にか強く噛んでいた。
「本当に、俺はいつでも自分勝手。エゴでまみれてる。……今日だって何の用事もないのに、英に、電話したくなったりさ」
 そうしようと至った彼女の事情を思い出す。ああ、と目眩のように後悔が襲った。そして背筋に氷雨が流れたような気がする。自分のことが一番可愛かった所為で、英を孤独の底へ突き落してしまった。
 そうしちゃいけないと一番理解していたのは自分のはずなのに。見えない底の方で彼女はそれでもまだ――きっと懸命に笑っているのだ。
 独りぼっちの、谷底の花として揺れている。
 だけどいつか、孤独にも終わりが来て――その傍にいるのが自分であればと、祈ってきたのに。似ている誰かでも人形でもない、自分であれば。それは本当に、ごく幼少期から浮かべていたものだ。
 聡い亮だからこそ気付けた。彼女の浮かべる笑みが偽物に近いということに。だけど、自分と向き合う時は、英は本当の笑顔を浮かべていたのだ。
 彼女の笑顔は苗字につく月よりも、太陽に近かった。亮はその笑顔がとても好きだった。
 だから、一緒にいたい。偽物よりもそっちの笑顔の方が、英だって楽だろう。
 ささやかな望みだったはずのそれは、気付けば大切なものに変わっていて、こんなにも強く、まだ小さな存在である亮の心を支配する。
 それが恋であれ、単なる憐憫や同情であれ、彼女を想っていることと同義だ。
「……亮、君?」
 黙って歩いていたからだろう。強く強く喜備の手を握っていたことに気付いて急いで離した。ごめん、と一呼吸置いて呟く亮の姿は、誰の目にも焦燥を持て余しているように見えたことだろう。
「英は……まず、英の家族のことだな」
 喜備がどんな質問を抱いているのか訊いていない。けれど亮は自然と口を開いていた。すぐ先を進めようとした時、くしゅん、と喜備がくしゃみをした。そうだ、陽が完全に沈みかけていて、辺りは随分寒くなっている。西の空には煌めく宵の明星が見えていた。
「喜備、まだ時間大丈夫か?」
「うん、別に門限が決まってるわけじゃないし、遅くなるなら連絡すればいいから」
「そんなに長くなるわけじゃねえよ。適当に店探して、寒いから中入って、そこで話す」
 多分、と付け加える。ふふ、と何故かそこで喜備は笑った。
「何だよ」
「ううん。――私、ケン君や城島君や、クラスのお友達の話は聞いてても、亮君の、私達以外のお友達に会うの初めてだったから……」
 あ、違うっけ、と指を下唇に当てる喜備。
「幼馴染なんだよね」
「まあ……それが一番正しいよ」
 まだ二人の関係は、それなりに年月が経っていてもその状態から進展していない。たとえ英の亮へのアプローチが、時に熱烈で甚だしいものであり、見る者全てが、この二人は交際関係にあると見たとしても、何も進んでいない。
「幼馴染かあ。美羽と幹飛も幼馴染同士だよ」
 二人が羨ましかったっけ、とまだ一年も経っていない頃を思い出したのだろう。喜備はほろ苦く、けれど照れたように笑った。彼女にも気になる幼馴染はいるのだろうか、と亮は少し視線を上げてみるが、喜備は特に何も継ぎ足しはしなかった。
 ――喜備にだって恋愛感情に近いものを抱いたことはある。むしろそんな風に考えてしまった今でも抱いているのではないだろうか。だけど、こうなってしまった今、冷静に考えてみると、英に向けるそれと喜備へのそれは明確な違いがある。喜備へ向けるものは尊敬や信頼が結びついたもの。まさしく友情と言えるものだろう。
 けれど、英へのものは、果たして本当に恋なのだろうか――。
(……やっぱり同情なのか)
 憐みでしかないのか。もしそうだとしたら、自分はなんて、傲慢なんだろう。
想いを構成する原子の名前は、繁華街の賑やかな明りが見えてきても、なおまだわからない。一旦は保留にしておこう。コーヒーショップの前に来て亮は判断する。これから喜備に話すことで、何か手掛かりは得られるかもしれないのだから。




 コーヒーショップは帰宅時ということもあるのだろう、外の暗さとは打って変わって賑わいを見せていた。スーツ姿の営業帰りの男性や同僚と談笑しているOL風の女性、スツールに腰掛けて勉強している高校生の姿、視界のどこにも人が沢山いた。混みあっている空間を縫うように目敏く二つ開いたスツールに腰掛けた。それでもまだコーヒーは十分熱を保っている。喜備はほうじ茶ラテにしたようだ。卵を持つように大切に運んでいる。
「亮君ブラックで飲むの?」
「将来的には」
 まだ微糖だ。砂糖は三分の一しか使わない。英は苦いのは嫌ですわと砂糖とミルクを必ず入れる。
「アイスが好きなのに苦いものも大丈夫なんだ」
「コーヒーとアイスじゃ土俵が違うだろ。アイスはお菓子、氷菓だ。出来れば甘い方が――」
 こんな他愛もない話をしている場合じゃなかった。喜備から目線を離し、コーヒーの闇を見つめる。カップになみなみと注がれているが底が知れない。英の髪の色のようだ、と亮はまた彼女を想う。
 きっと恋をしている時は、どんなものにも想い人を繋げてしまうのだ。
「英の家、家族はさ」
 スプーンで、渦を巻く。光がくるくる回るような気がした。
「英も言った通り工学系の研究所をやって、いろんな企業と取引してる。そんで、家族も自然とそっち系の仕事をしてる。研究職は勿論、その研究所の経営とかも含まれる。その界隈じゃ結構有名なんだ、幸月家は」
 神妙に頷く喜備。亮はスプーンの動きを止め、コーヒーの波を裂いていた。
「ところで――英は、美少女だ」
 神妙に頷いていてはずの喜備の顔がきょとんとしたものに変わる。予想していた通りだ。
「英が可愛いと思うか?」
 思うだろ? と促すことはしない。誰の目にも明らかなことだからだ。彼女に惚れている亮の贔屓目ではない。可能ならば今すぐキッズモデルとしてローティーン向けの雑誌の表紙を飾れるだろうし、役者だってこなせるかもしれない。アイドルグループに入っていて、多くのファンに傅かれることもおかしくない。――そこまで考えて、ふと、学校での英の男子人気はいかほどのものなのだろうという問題を意識することになってしまう。途端に今の問題とは違うざわざわとしたものが背筋を這った。――が、今は至ってどうでもいいことだ。いつかもっと、ゆっくり考える時が来る。来ればの話だが。来てくれるといい。
 今亮が考えた通り、モデルだとか役者だとかアイドルだとか、彼女にこなせる器量が無い、とは言い難いくらい、彼女は美少女だ。尤も、英は分不相応ですわと辞退するだろうし、その前にもっと大きな存在がそれらを拒否するだろう。
 それが英の家族だった。
「英の家族は――頭が良かったり、財力があったり経営力に優れていても、容姿には恵まれていないんだ」
「容姿……」
「言っちまえばブサイクってことだ」
 向かい側に座っていた女子大生くらいの女性がこちらをちらりと見た。そんなに大きな声で言ったつもりはないが、気をつけようと変な汗をかきながら亮はやや体を縮ませた。ぶさいく……と喜備も苦々しい顔をしている。
「普通なら、英だってもっと……あまり可愛くない子であるべきなんだよ」
 遺伝を考えるならばの話だ。しかし、亮は首を緩やかに振る。
「幸月家はどの家庭もほとんど、器量は並みか並み以下だ、残念ながら。だけどその中で英はまるで、その名の通り――漢字は違うけど、荒野に咲く花。あるいは石炭の中の、月の水晶。英は輝いていて、そして可憐だ。だけどあいつは、ある意味」
 異端なんだ。そう結ぶのが辛かった。けれど、そういう形で表れる場合だってままある。悪いことばかりがすなわち悪いことではない。暗闇の中で光がある時、見る者が見れば光を異常に思うだろう。それと同じことだ。
「一代始まって史上最高の愛嬌と美貌をもって、その上勉強熱心で、更に発明が趣味」
「……うん」
「なあ喜備。少し、悪い心を……人間の汚いところを見る心を持ってみろよ」
 喜備の中に眠る七備ならば、英の家族の気持ちがすぐにわかるかも、わからない。――喜備自身はそんなことを絶対しない。そう言えるからあえて言うのだ。
「つまり英は――幸月家では嫌われ者なんだ」
 言い終えてしばらく沈黙が二人の間に降りる。店内の雑踏を溶かしたようなコーヒーは、砂糖を少しだけ入れているにも関わらず苦く感じた。肩にかかるように重苦しい程。
「でも――でも英ちゃんは、ちょっと話しただけだけど、そうは……」
 見えなかったと言いたいのだろう。けれど喜備は口を閉じる。見た目と真実は必ずしも合致しないということは、梅雨頃に嫌という程考えてきたのだ。
「……英自身は、家族のこと好きなんだろうけどな」
 そういう家系ですもの、と誇らしく言った英を亮は思い出した。うんと頷きながらも代わりにこう喜備は問う。
「それは、……ご家族が嫌ってるっていうのは、他人の目から見てあからさまなの?」
「どうだろう。俺の家族は何となく察してる。英ぐらいの美少女だったら、少しくらい自慢してもいいけど、あの家はそんなことをしていない。ああ、それに、英はよく外国に行ってる」
「そういえば、今日もお土産持ってきてたね。でもそれが……?」
「それとなく、親に飛ばされるんだ」
 勉強になる、とか何とか言われて、英は旅をする。実際英の外国語能力はその旅行のお陰で結構使えるものになっている。技術系の学問の道を志すなら当然必要になってくるその力だが、幸月家の狙いはそこにはない。
「それはつまり……こう言ったら悪いけど、厄介者払いみたいな……」
「そういうことだ」
 喜備は眉尻を下げた。ぎゅっと服の裾を握りしめて英の悲しみや疎外感を慮る。それなのに、と亮は喜備を見ながら続けた。
「英の頭脳っていうのは結構すごいものなんだ。そりゃあ今は並みの小学生より上ってところだけど、まだまだポテンシャルは秘められている。このままどんどん研究の道へ進めば、とんでもないものを開発してしまうかもしれない。――その点を幸月家は見逃していない」
 汚い世界だ。それ故、英を手放すことはしない。それなのに英の見た目を嫌う。表面を嫌うのに中身だけは欲しがって褒めたたえる。相当ストレスが溜まるものだろう。
「でも英は自分の置かれてるそんな境遇を、理解している。だけど、英は家族のことを誇りに思っているし、尊敬しているんだ。何とかして好かれたい。本当は……そんな願いを抱いてる」
 実の家族に何を言われているのだろう。それでも笑顔を浮かべる彼女の裏側には何が眠っているのだろう。
 輝く月の裏側にあるものは何なのか。
 亮は込み上げるものを必死で堪える。
「だから……感のいい人だったら、ああ、この家族は……って、察するかもしれない」
「亮君は?」
 優しく喜備は問う。自分? と亮の方も首を傾げてしまう。
「亮君は気付いてた? そういうところ結構敏感だと思うから」
「……七備を呼び覚ましたのは俺だから? いや、俺なのに?」
「亮君は大人なんだもん」
 ゆったり首を振りながら言う喜備に亮は皮肉を感じた。大人だったらもっと上手くやれているはずだ。あんな風に英を突き放したりしない。尤も、喜備が皮肉を言うはずはない。
「気付いてた」
 英の孤独に気付けたのは、きっと自分だけだった。
「家に初めて招かれた時からきっと気付いてた。もう随分前のことだからあんまり覚えてないけど。きっと英もそのことに気付いたんだ。だから英は俺にものすごく積極的に迫ってくる」
 年下なのに、と苦笑した。二人だけでどこかに出掛けたり、英と一緒に変な部品を一杯並べながら妙な機械を組み立てたり、難しい本を一緒に読んだりした。たまには何もしないで二人でごろごろしている日だってあった。
 そんな風に過ごしていたのに、亮は彼女を友達だとはついぞ思わなかった。それはどこか残酷な所業のように思えた。
「あいつの隣には俺がいていいし、俺の隣は、家で居場所がないあいつの唯一の居場所だった。きっとお互い依存し合っていることを、俺も英も何となく理解していたんだ」
 子供同士が持つ大人には聞こえない秘密の言語で、二人はその契約を交わしたのだろう。
「……じゃあ、亮君は、英ちゃんのことが好き?」
 コーヒーを飲もうとして思い止まる。別に喜備は、美羽や幹飛達のような意地悪な笑顔を浮かべてはいない。まっすぐに亮を見つめて訊いている。真剣な眼差し。だから亮も真剣に答えを返さなければいけない。だから、わからなくなる。その想いの本質は何なのか。英に向けられてしかるべきものなのか。
「……同情なのかもしれない。憐みなのかもしれない」
 英へ向ける感情の複雑さを、どうしても割り切れない。簡単な言葉に集約できない。
「好きって、本当は言えるんだろうけど、どうなんだろうな。よく、わからなくなった」
 英を、可哀想だと思う。自分の隣が彼女の居場所なら、彼女をずっと置いておきたいと思う。亮だって、出来れば彼女の隣にいたいと思う。少しうるさいけれど、英の隣の居心地は、そんなに悪くない。
「……いろいろ思うさ。でもそれは、全部同情であり、憐憫であるとも言える。
 そこに「好き」の仮面を被せて英が好きだっていうのは、間違ってると思うんだ」
 言うなれば英を侮辱する。それに近い。英は本気で亮を好きかも知れないのに、そんな形で返すのは失礼だ。
 ねえ、と喜備は問う。
「……亮君、私にはまだ恋愛のことはよくわからないけど……「好き」って言葉は、仮面なのかな」
 伏せつつあった顔を、喜備の方に向けた。喜備も何だか困惑した顔をしている。
「嘘をつくために、「好き」って言葉はあるのかな」
 亮はただ喜備をじっと見つめた。
 きっと彼女は、百パーセントの好きしか向けたことはないのだろう。疑う余地もないものを、真っ直ぐに。清らかな心は亮をどこか癒してくれる半面、ますます迷わせるようでもある。
 好きに本当も嘘もあるものか。
 二人の会話は、しばらく途切れてしまった。ぼうっとどこでもない場所を見ながらコーヒーとラテを飲み続ける。
(そもそも)
 コーヒーの最後の一滴が亮の食道を通っていく。
(英は俺のことが好きなのかな)
 英は何度も亮に好きと言ってくれた。抱き締められたり、二人で会う時は手を繋いだこともある。誕生日プレゼントもバレンタインのチョコレートもクリスマスも、彼女との出逢い以来、接点は必ずあった。でもそんなのは気休めでしか無い単なる記号だ。
 英のあの人形を思い出す。亮の代わり。亮じゃなくてもいい。でも亮じゃなくてはいけない? 寂しいなら俺の事情なんか構わずに、いつでもどこでも、電話でもなんでもすればいいんだ。俺はお前がどこにいたって何をしてたって、絶対に繋がってみせるのに――何かの衝動に駆られながら、亮はまくしたてるように想いを並べる。
(英は俺を、どう思っているんだろう)
 誰に問うでもない。明らかなものであるがゆえに、本当の姿がわからない。
 彼女がどうしてか、遠くに見えてくる。真昼に浮かぶ白く淡い月のように。


 コーヒーとラテを飲み終えた二人は店を後にした。気付けばレジには結構な列が出来ており、さっさと退散して回転をよくした方がいいとどちらからともなく思ったからだ。それでも会話は少なかった。きっと帰宅した後、喜備はごめんねと謝るかもしれない。
「あ、そうだ、亮君」
 けれど喜備は今までずっと何かを考えていたのだろうか、思った以上に普通の声だった。何度も考え逡巡しながらようやく答えを出したのかもしれない。少しだけ亮の体は強張った。しかし、彼女は思いもよらぬことを言う。
「ねえ、英ちゃんとのデートなんだけど、もしよかったら大学の学祭に来ない?」
「学祭?」
 そう、と嬉々として頷く。三国大学の学祭はちょっとした地域交流の場所、お祭りの場でもある。首都圏の有名私立大のように豪勢なものではないが、毎年それなりに盛り上がる。英もそういうところは嫌いではないし、大学なのだから彼女の学究心をそそるものがあるだろう。悪くない。
「うん、じゃあ――」
 学祭のスケジュールを教えてもらう。喜備も初めての大学の学祭なのだからきっと楽しみにしているだろう。さっきの話の続きかと思ってひやひやした所為だろう。落ち着いてふと上を見上げた。その時に、亮の目の端にぼんやりした光が映った。
 月だ。三日月よりほんの少し大きく、しかし満月には満たない頼りない月。ぼんやりとではあるものの、昼間のものよりも質量が感じられる光を放っていた。
「どうしたの?」
 気付けば歩みを止めていた。喜備は不思議そうに振り返る。
「……あのさ」
 そうだ。思い出す。英の名前を思い出す。
「英、って珍しい名前だろ。英語の英。ハナブサって読む場合もあるけど。花冠の花じゃない、ハナって名前」
「うん。それが……?」
「本当は、多分、親は秀でた子に育つようにって、そういう名前をつけたんだと思う」
 けれど、と亮は月から目を逸らした。月光は人を狂わせる。その迷信を信じているわけじゃないけれど。
「けれど、英には別の意味があるんだ」
 それが英のことを表していると言うわけじゃない。
 けれど、彼女を皮肉るには十分だろう。
「別の……?」
「花が咲いても、実のならない花のことだ」
 花が咲く分、芽吹かない種子よりも救われているのかもしれない。
 けれどその後に続くものはないのだ。
「無駄な花のことを言うんだ」

 花に、無駄も無駄じゃないもあるものか。
 人という存在に、無駄も無駄じゃないもあるものか。
 好きという気持ちに、本当も嘘もないように。

 それでも喜備は青白い顔をして言葉を失っていた。その白い頬は月の表面よりもずっと冷たいかもしれない。だけど喜備がそんな顔をする必要はどこにもないのだ。
 英は決して、無駄な存在であるはずなどないのだから。たとえ最悪の場合、家族の嫌悪がある瞬間頂点に達して、真綿で首を絞めるように彼女を徐々にどこか人知れぬ闇に陥れていったとしても。
(少なくとも俺にとっては)
 実らない花を誰もが見捨てたとしても、亮だけはその傍にいたいと思ったのだ。初めて出逢ったあの日から。
 それはずっと昔でも、今この瞬間でも全く色褪せずに胸に灯り続ける光と同様だった。それは月明りに似て優しくあるのに、全ての生命を支える源の陽光にもどこか似ていた。まるで英の笑顔そのものだった。

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