月の花




 授業参観とは、一般にいつ頃行われるものなのだろう。御法亮はかつて配られたプリントを見ながらしばし想いを巡らせてみたが、とんと良くわからなかった。雨の多い梅雨や雪も降って交通量も多くなる冬にやるものではないだろう。かと言って新しいクラスにまだ慣れない春先にやるものでもないだろう。
 となるとやはり、個々人クラスでの位置もすっかり安定して、気候も過ごしやすい秋にやるものなのかと、その褪せたプリントを元通り折り畳んで鞄の中に仕舞った。――携帯電話を探していたら、以前下校時に貰ったまま、鞄のポケットに入れられ忘れ去られたそれが顔を出した。だから少し眺めていた、それだけである。亮の両親、兄姉共々忙しい。使用人に来てもらう程でもない。それに亮は、自分のことについて考えていたわけではない。ケン・アンダーソンのことを考えていたのだ。
 授業参観は先週だった。休み時間、保護者同士の交流に賑わう彼のクラスを少し覗いてみたら、そこには浅倉夫妻がいた。母親、もしくは父親だけの参加という中、両親二人が出席というのは珍しいだろう。――と言っても、彼の両親は既に他界していて、浅倉夫妻は言わばホストファミリーでしかない。亮はその事実を薄々気付いてはいたものの、最近ようやく完全に知ることが出来た。そのことでケンとの間に、ちょっとした出来事があった。授業参観は、ちょうどその後にあったことだ。
 亮は脳裏に、楽しそうに、またどこか恥ずかしそうに笑うケンの笑顔を思い浮かべた。あの日ケンはちゃんと、もうひとつの両親に愛を向けていた。また、向けられていた。悲しみの色も、無理をしている面影も、何一つ見えない。それが虚像だと、誰が言えよう。
 つまり、亮は安心しているのである。
 ケンと浅倉夫妻が、亮と最初に会った日から変わらず家族であることに。
(……ちょっと、ホームシックかな)
 今年のクリスマスくらい家族と過ごせればいいのに、とケンへの羨ましさがそんな願いになって現れる。過ごせるなんて思っていない。とんだ絵空事だと苦笑した。
 ともかく、と亮は頭を掻く。本当の家族かそうでないか、血の繋がりがあるかないかなんて、実際のところ瑣末な問題に過ぎないのだ。そう思ってどこか満足した気分で空を見上げると、視界の端の方にうっすら白い天体が見えた。まるで、小さな雲がぼんやり漂っているように。
 昼間の月。時刻はもうすぐ夕方で、それほど時を置かずに日没になる。月と星と静けさと、闇に紛れる不思議なものにそれぞれ支配される世界がやってくる。夜になれば今青空に浮かぶ月も、青白く輝く。三日月がほんの少し膨らんだだけで、どこか頼りなげに見えた。
 やや速度を失いかけていた亮の足は完全に止まる。そして別世界から彼を見つめているような月を彼もまた見つめ返す。今にも空の青に紛れてしまいそうな程薄く見えたのは気の所為かもしれない。
 本物の家族であっても、虐げられ蔑まれることは、悲しいことにこの世界では全く珍しくないことだ。
 亮の目はもはや月を見てはいなかった。彼の脳裏には、太陽のように明るい笑顔を見せる少女が映っていた。しかしそうでありながらも、どこか冷たい月のような淋しさを感じずにはいられない少女でもあった。


 今の時間、三国紅茶館には店のオーナーである黄桜忠と、亮の友達でありアルバイトであり黄桜のよき理解者――と言うと黄桜は大抵眉間に皺を寄せて複雑そうな笑顔を浮かべるのだが――である薄雲春龍がいるはずだ。繁華街にほど近いところにありながらも、静かな時間を過ごせる紅茶中心の喫茶店。亮のお気に入りの場所だった。読書をしたり黄桜や春龍と他愛もない話をしていると、運が良ければ彼の一番の友達である柳井喜備に会えるかもしれない。いつもだったら、もう少し足取りは軽い。
 けれど、あの月を見てしまってから――いつもとなんら変わらない月だったのに――亮は携帯電話の電話帳のとあるデータを開きっぱなしにしたまま、動きの鈍い雲のようにだらだらと歩いていた。ディスプレイにはその電話番号とメールアドレスを所有する少女の名前が表示されている。ボタン一つで、彼女と連絡が取れる。メールだって書ける。どうってことないことだったはずだ。――少なくとも、ケンとの一件がある前はもう少し遠慮なく出来た。ただ今、「家族」のことを意識してしまうと指はそれ以上動かない。
 気付いたら、店の扉の前に立ちつくしていた。店はあちらから開けてくれない。たとえ鍵を外していても。いつだってこちらから行かないと、サービスは得られない。心地良い雰囲気にも浸れない。
(別に……いつだっていいか。今だって、何の用事もなかったわけだし)
 用事はない。話すこともない。
 けれど彼女と何か繋がっていたいと、一本の波を共有していたいと、どうして想ってしまうのだろう。
(俺のエゴだろ)
 彼女への想いや心配は、時として幻想にだってなる。彼女はそんなことをちっとも気にしていないだろうに。
(まあそんなこと言ったら、何するにも出来なくなるけどさ――)
 そう胸で重く呟き、ため息をつきながら扉の取っ手に手をかけようとした時――扉はまるで自動ドアのようにあちらから開いた。黄桜か春龍が何となく気配を察してくれたのかもしれない。苦笑に近い微笑を浮かべたが――それは不自然に固まってしまった。
 黄桜も春龍も亮より背がずっと高いから、亮の目線は自然と上に向いていた。けれど、上には誰もいない。代わりに自分の目線と同じくらいのところに、誰かが立っていた。
 額を大きく出している。こめかみの辺りで、髪を結んだリボンが揺れていた。腰まで伸びている二つに結んだ長い髪が、気まずく通った秋の風に揺らされる。有名な私立小学校の制服であるボレロスカートも優雅に揺れた。彼女の顔は亮の不自然に固まった笑顔とは違い、確信に満ち満ちている、輝かしい笑みに溢れていた。
 必ず逢えると思っていたと言わんばかりの想いは、物理的に彼の体に投げ込まれてくる。
「亮くん!」
 お久しぶりですわ――と、その少女、幸月英(こうげつはな)は、彼の携帯電話に自分のデータが表示されていることも知らないまま、愛おしそうに亮に抱きついた。

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