むくれた顔で、温かな紅茶を啜る。いい香りだ。それでも亮の混乱した気分は治まらない。香り立つ湯気の向こうには自分とは正反対の顔を浮かべてにこにこしている英がいる。何が面白いのだろう。
「亮君。そんな顔をしていては、英さんに失礼にあたりますよ」
 スコーンを持ってきたところで困った顔を浮かべるのは春龍だ。傍から見れば色んな表情が並んでいることだろう。それはそれで面白いかもしれない。
「失礼なのはこいつだろ。俺の大事なプライベートの時間を乱しに来やがって」
「それについては謝りますわ。でも、これはほんのちょっとしたサプラーイズ、と言うもの。そうかっかしないで欲しいですわ」
 随分私も欧米化してしまいましたわね、と上品に笑う。サプライズは欧米の文化だとでも言いたいのだろうか。びっくりしたでしょう? と目で彼女は問う。
そりゃあ、何の用事もないのに連絡を取ろうとしていた矢先に、当の本人が現れたのだ。亮は木や石ではないから、びっくりしないわけがない。でもそれとは別に、何だかしてやられた感じもするのだ。癪に障るというのだろうか。
逢いたくなかった、わけがないのに。
 いつもいつも、何でもかんでも、亮より英が先に行ってしまう。年も、身長も、遠くへも、寂しささえも。
(それで、かな……)
 英は紅茶について春龍と話をしていたようだが、彼が去ったところを見ると一段落ついたようだ。もう一度謝りますわ、と頭を下げた。別にもういいよ、と亮はソーサーにカップを戻す。
「この店のこと、誰から聞いた?」
「鳳城さんですわ。それにしても、会わない内に随分社交的になりましたのね」
 英は探るような目を向けて、小悪魔のように微笑んだ。
最後に会ったのはいつだったろうか――まだ喜備達には会っていなかったと思う。それだけでやたらと遠い昔に感じるのは不思議なことだ。
「少し……」
 そう言って何故か英は口を噤む。そして誤魔化すように笑った。何かを言いかけたのは明白だった。亮はその先に繋がる言葉が何なのかわかっていた。けれど、秘されたものを無理に言う必要はないだろう。何事もなくスコーンを齧る。
「まあ、いいやもう。俺も、電話かけようと思ってたところだし」
 聞かなかった振りをして話を切り替える。けれども、何を言おうとしたかはあくまで咀嚼音に紛らわせようとした。黙っているのはもっと癪に障る気がした。でもその気持ちとは別に、英に会えて何だか嬉しいような気もする。複雑だ。
 亮はこの想いに何という名前がつけられているか、もうとっくの昔にわかっていた。喜備に対する好意とは違う。似ているようでどこか区切られていて、そしてその区切りは、一つしか持ってはいけない。
 電話? と英は目を丸くした。彼女は耳がいいのだろう。カップを大切そうに持っていた手は祈るように組まされ、何故か熱っぽい目線を亮に投げかけてくる。何でそう大仰な動作をするんだ、と密かに後ずさった。しかし椅子を動かしても彼女は気付かない。
「もしや! デート! の! お誘い! で! ございますかしら!」
「何故いちいち大声で区切る!」
「デート」
 ん? と首を傾げる亮。今明らかに、ここにはいない人物の声がした。紅茶館には今、亮と英と春龍と黄桜しかいない。しかしその声は女性のもので、英よりも若干大人びた声だった。そしてそれは亮の良く知る声で、出来るならば、このやりとりを聞かれたくない人物リストに載せられている人物でもあった。
 ゆっくり振り返る。入口と亮達のテーブルの真ん中付近に彼女、蝶谷幹飛は何故か仁王立ちで立っていた。亮が見たくない、悪戯をしたがっている子供のような無邪気な顔をして。――いやそこに邪気は本当に無いのだろうか。
「デート! デートと聞いて!」
「デートだデートだ、ラーメンデートだ!」
 そしてその後ろからぴょんと跳ねるように出てきたのは彼女の同回生の越後希威馬。厄介な二人に遭遇してしまった。亮は内心舌を打つ。この二人、亮をからかうことが至高の喜び――とまで評する程ではない。弟や妹を可愛がるようなものだし、亮だって居心地良く感じているところもあった。だけど今この状況では、そんな生易しい風には捉えられない。
 だってここには、英がいるから。
 ちらりと英の方を見やる。英は突然の来訪者に目をやや丸くしていた。一方で幹飛は何でラーメンデートなのよと希威馬を小突いたりしている。亮が焦っていることなど至極どうでもいい。そんな風な結論が容易に導き出せる。
「で、亮? その可愛い子とデートするんだって?」
「だあっ、俺はまだ何にも言ってない! こいつが勝手に勘違いしただけで――」
「ところでその子、もしかして例の?」
 幹飛よりもずっと冷静な声が聞こえる。けれどどちらかというと揶揄の方向に傾いているそれに亮は油断できなかった。入口の方にいた関屋美羽がこんにちは、と片手を挙げている。
 亮はまさかと息を飲んだ。美羽は背が高い。後ろに誰かいると言われても、背の低い人には見えない。だけど、ここまで来て彼女がいないという可能性は低いのだ。案の定、時間をおかずひょいと顔を出したのは最愛の友達だった。
 柳井喜備は何だか居心地悪そうに、けれどもえへへと笑いながら手を振った。亮はというと、目を逸らすだけだ。英の表情も見られない。
「いらっしゃいませ」
「これはまた、臨時休業ですかね」
 黄桜の事務的ながらどこか嬉しそうな挨拶。春龍は微笑みながら紅茶を用意しようと厨房へ向かう。二人の声は一連の中で長閑な効果音にしか聞こえなかった。
「亮君、あの、その子は、お友達?」
 質問を投げたのは美羽だったはずなのに、いつのまにか喜備のものになっていた。喜備は――喜備は知らないのだ。亮に「気になる少女」がいると知っているのは、梅雨のあの日、三国紅茶館に残っていた、喜備以外のここにいるメンバーだけだ。
「――ええと、その」
 英は、何なのだろう。横目で彼女を見やるけど、ぼんやりと彼女の姿が目を掠めるだけだ。
 本人の目の前で「気になる子」と言えるのか? 「友達」だと偽ることは何だか喜備達に悪いような気がした。自分の本心を誤魔化すような狸になりたくても、亮は残念ながら子供過ぎる。――そもそも「気になる」がどういった意味で「気になる」なのか、よくわからない。恋だと薄々気付きながら、でもどうしても踏みきれない自分がいるのだ。
 視界の端の英は、雰囲気を探ろうとしていたような落ち着いた、それでいてどこか怯えにも似た表情から一転、笑顔を浮かべた。
「亮君の、幼馴染ですわ!」
 独り逡巡する亮を知ってか知らずか、英はそう言った。
(……幼馴染)
 そうか。そういう言い逃れ方法もあるのか。感心したのはしかし一瞬だった。英はこれ以上ない程の笑顔で喜備達と向き合っていた。最上の答えを出したとその顔は語っている。そんな風に見えた。
(そうか、英の中で俺は、幼馴染か)
 間違ってはいない。家と家の付き合いだし、亮と英も幼いころからの付き合いが長いけれど、いとこ等の親類関係ではない。幼馴染。それが一番しっくりくる。
 それなのに、何故だろう。
 どうしてかとても、裏切られたような気がするのだ。
(……裏切ったのは俺の方なのに)
 友達を得て、彼女から少し遠ざかったのは、つい最近のこと。
 それまでは、亮と英しかいない世界にいたも、同然だった風に――そんな風に、振り返られる。
 へえそっかそっか、と頷く一同。だが喜備と春龍と黄桜以外が――つまり、主に幹飛と希威馬の悪友コンビのことなのだが――浮かべる笑顔を素直に受け取れない。むしろ英の回答は、亮と英が示し合せて導きだした偽の答えだと取られているかもしれない。――実際そうであったら、いくらかは善いだろうけれど。
「幸月英と申します。幸せの月に英語の英と書いて、コウゲツハナ。小学校五年生の若輩者でございますわ」
 起立して、まくしたてるように言うとぴょこんとお辞儀をする。その様子を見てどこか兎のようだ、と亮は思う。髪型はよく見ると、兎に似ていなくもなかった。
「あ、ホントに年上なんだ」
「? ええ、亮君とは一つ違いますの」
「早生まれとかではなく」
「はい。私は五月生まれです」
 亮の誕生日は二月なので、単純に生まれ年だけ見れば実は二つ違っている。好奇の目を寄せる奴らには気付かれないようにと願う。大体、一つか二つ違うくらいで何故こんなにいじられなければいけないのだ。気を取り直して亮はわざとらしいけれど咳を一つした。
「英の家、ちょっと工学系の研究所しててな。うちの会社が昔から世話になってんだ」
「なるほど。それで親戚みたいな付き合いになるわけだ」
「幼馴染以上いとこ未満か?」
「工学系ねえ……ということは、理系かしら」
 そう言われれば、と亮はざっと一同を見渡した。美羽は法学部、春龍は文学部。喜備は社会福祉学部で幹飛と希威馬は教育学部。大体文系と言えるだろう。どちらかというと亮も自分は文系だと思っている。黄桜の経歴は知らないし、ある意味理系のような気もしないではないが、文系ではなかろうか。弓道と茶道をやっているということもある。
 この中で英だけが理系であることは何か特別な意味を持つのではないかと、亮は目線を英に戻した。まあ、平凡な――亮と喜備は非凡と言えるが――この集まりに事件を巻き起こす程のことではないと思うが、と亮は紅茶を舐めた。
 小学生程度で文系理系だと言うのも可笑しい話だ、と知らない人は言うかも知れない。けれど、こと英に関してはその点は留意しておかなければならない。彼女の趣味についてだ。
「はい。そういう家系でございますから!」
「発明が趣味なんだよ、こいつ。あと機械いじりとかものすごい」
 手先が器用で、裁縫なども得意だ。喜備と話が合うかもしれない。そう頭の片隅で考えながら紹介した。発明? と一同目をそれぞれ丸くした。
「皆さん、そう驚かれる程のものではないんですのよ」
 普段自己主張が強いのに、謙遜する彼女は珍しい。やはり年上に囲まれている所為だろうか。そうだよ、と亮も相槌を打つ。
「お前の発明なんて、おもちゃみたいなもんだろ」
「いやいや、最近のおもちゃは結構凝ってるものもあるのよー?」
 そう得意げに話すのは幹飛。児童交流の授業でもあるのだろうか。おもちゃ、と言われても、亮にはクラス内で流行っているゲームのハードしか浮かんでこない。四年生ともなると、ヒーローものや変身少女もののおもちゃでなりきって遊ぶことは、もう(彼らの基準からして)子供なのだ。十分羞恥の類だろう。仮想現実の中で、自分を様々にカスタマイズし、世界の誰かと繋がって遊ぶというのが主流になっていくのだ。――まあ、ケン達小学一年生は、まだまだなりきり遊びで盛り上がれるのだけれど。
「亮もさあ、一応天才なんだし何かすごいもん発明すればいいのに」
「簡単に言うよな。そうほいほいキテレツ大百科みたいに作れたら、今頃タイムマシンが一家一台っていう時代になってるぜ?」
 どちらかというとコロ助とドラえもんが欲しいナリ、と希威馬がふざけた。
「でも亮ってあんまり作ったもの見せてくれないわよね、そういえば」
「ははーん。図工とか技術とか絶対苦手なタイプだわ。夏休みの工作の宿題が決まって悲惨なものになってるとかね」
「な、なんだよ」
 見たこともないのに、根拠のないことを言わないで欲しい。亮は軽く幹飛に腹を立てた。自分ではそれなりだと思っている。――けれどあくまでそれは「自分」の基準。そしてそんな自分を大切に思って「本当のこと」を言っていないかも知れない身内の評価だ。急に不安になる。自分は裸の王様でしか無かったのだろうか?
「一概に天才、と言いましても、いろんなタイプがございますわ」
 強い風に揺らめいていて、危うく消えそうにもなった灯は、英の一言でぴたり、と形を定めた。思わず彼女を見てしまう。気付いた英はその大きな目をウィンクさせてこう続けた。
「亮君は、私みたいにごちゃごちゃ機械をいじったり、ちまちまモノを作ったり、少しくらい人が驚くものを作ったり、そういうことはしなくても、沢山ものを知っていたり、いろんなことの作戦を立てたり、計画を練ったり、アドバイスをしたり、物事や人をまとめるのがとても上手だと思うんですの。ですから、そういう意味で天才だと思うんですわ! 私は、機械を作ったり発明は出来ても、他の部分は普通の小学生ですもの!」
 早口にはならなかったが、一息で喋ったように聞こえた。はあ、と幹飛は若干言葉を失ってしまっている。幹飛を見上げる英の顔は、睨み顔ではない。自信と希望に満ちた笑顔だ。亮に向けるには、勿体ない程の。
 その時亮は確かに、自分の胸が高鳴る音を聞いた。誰かに聞かれやしなかったかと狼狽しかけたくらいの、はっきりとした感覚だった。
「まあ……そう、かもね」
「亮君、よく学校で皆とサッカーとか野球とかしてるもんね。クラスの委員長もしてるんでしょ?」
 言動を反省するかのように気まずそうに引き下がった幹飛と、胸を撫で下ろしたかのように微笑む喜備に、ああと生返事しつつ亮は何度か頷いた。やっぱり亮君はすごいですわと英は手を組んで喜んだ。それだけ聞けば別に、ごく普通の、ちょっと優等生タイプの小学生でしかないのだが。
 あ、と組んでいた手を離し、英はぽん、とそのまま一つ柏手を打つ。英は切り替えが早い。余韻は引きずらない方なのだ。
「発明と言えば、この前イギリスの方に行ってきた時、これを作ってましたの」
 シリコンバレーならまだしも発明とイギリスはあまり繋がらない。しかし英がイギリスに夏休みの間旅行していたのは知っていた。そこでお世話になった家の人がやはり工学系の研究者か何かだったりした、というのはあり得ない話ではない。何が出てくるのやら、と席の後ろに置いていた紙袋を、英が漁るのを亮はぼんやり見ている。ほんの数秒後、唖然としてしまうのも知らずに。
「じゃじゃーん!」
 と取り出したるそれはぬいぐるみと人形の中間にあるものだった。人の形だからとりあえず人形だなと亮は思う。だが問題はそこではない。デフォルメされているものの、髪型や服装や顔など、明確な誰かを指している。
「何だよそれ……」
 それは、まず間違いなく御法亮だった。亮君だね、亮だわ、と後ろからも声がする。そう、その通りと英はにっこり笑った。
「私が遠い異国で亮君のことを想いながら一針一針想いをこめてだだだだだーっと縫ったんですわ」
 想いをこめた割には手荒な音だ。それはともかくとして何なんだよ、と亮は英に食いついた。いきなり自分にそっくりの人形を出されたら、戸惑うものだろう。しかし英は微笑するのみ。かと思うと人形の背をこちらに向けた。そこには何やらいかにも形式的なボタンがついている。押してくださいと言わんばかりの存在感だ。
 ぽちっと英がそれを押す。
『よお、いい天気だな』
「! 亮君が喋った?」
「確かに今日はいい天気だわ」
「いや突っ込むとこそこじゃねえだろ」
 亮は人形が何をするか、剣呑な気分で黙って見ていたから、喋るわけがない。喋ったのは人形の亮の方だ。
『英は今日も可愛いな』
 そして、亮の懸念は次の一瞬で見事に現実となる。亮の周りだけ空気が固まった気がした。言うまでもなく、喜備達の間でも空気は急速に色を変え始める。
『今日も明日も明後日もお前の傍にいるぜ、好きだぜ英!』
「いやだもうっ、皆さんの前で!」
「それは俺の台詞だ!」
 何ていうものを作り出したのか! と人形に向かって腕を振るうがさっと英に躱されてしまう。英はこの微妙な空気の流れの悪さを感じていないのか、どこか意地悪に微笑んでいる。そして彼女の胸にはしっかりと亮の人形が抱かれているのだ。
「ずっと連絡がとれませんでしたもの。でもこの亮君人形がいてくれたから、寂しさなんて吹き飛びました! 夜もぐっすり眠れて、お肌もつるつる!」
「まるで通販番組のような流れに」
「効果はばつぐんだ、ってとこか」
「ねえねえ、他の言葉も喋るのかな? えっと、英ちゃん」
「はい、勿論!」
 そして喜備達は、彼女の周りに群がって、亮の代わりに作られた人形をあれこれいじりまわし、かりそめの自分は、自分の声で偽りの言葉を好き勝手に囁く。人形本体だけではない。中身も、英が作った、会話の出来る人工知能か何かだろう。
 英が寂しくなければ、それでいいじゃないか。
「くっだらねえ!」
 けれど、英達の感じている上機嫌が気に食わなくて、亮にそんな言葉を吐かせてしまう。――だが本当にそうなのだろうか。
 英には別に、「自分」じゃなくてもいい。
そうどこかで感じているから、そんな激高になったのではないか。
「何なんだよそれ、俺の都合とか気持ちとか全然考えないで、よくそんなもん作れたよな。そんなの自分で自分を慰めてるだけじゃねえか。何の意味があるんだよ! お前の頭は、昔っから虚しいもんばっか作ってて――」
 そこから先は、言わない方がいい。
 理性の鳴らす警報は、ピアノの音のように繊細に、しかしどこか芯の強さも感じられるような響きで亮の体の隅から隅までに行き渡る。
 そうだ、駄目だ。彼女を傷つけることになる。それもたった一時の憤慨で。
 そっちの方が、ずっとくだらない。
 英は言葉を全て道に落としてきたかのように口を閉ざし、亮に何の反抗もしなかった。喜備達もまた言葉を白紙にされた風に黙ってしまう。ごめんなさい、と、ただそう言い苦笑して――それは随分、切なさの伺えるものだった――英は人形を抱く手を緩めた。そのまま紙袋の中に戻してしまう。ちらりと見えた人形の顔はどうしてか笑っているようにも見えた。亮を皮肉っているようで、でも違うような、ただの記号としての笑み。
「そうそう! 本当はこれを渡したかったんですの!」
 言葉を失ったのもつかの間、英はすっかり元通りの声色で何やらお菓子を取り出した。クッキーか何かのようで、黄桜が少し興味を示したように移動してくるのを、亮はぼんやりと見ていた。
「旅行のお土産でございます。渡すだけだったのに、ついつい長居してしまって」
 本当にごめんなさい。そう言いながら亮君と彼女は荷物を持って自分の隣にやってくる。
「お友達にもお逢いできて、楽しかったですわ」
「英」
「それでは、家族が心配するといけませんので、私はこれで失礼いたします」
 ごきげんよう、と優雅に挨拶しながらも、まるで春の風のように軽快な足取りで店から出ていく英。亮は何も言えなかった。いや、言う隙を与えられなかった。謝罪も、感謝の言葉さえも。
 喜備達の方に、振り返られない。さっきの自分の言葉を、責められるのが怖い。
 言うだけ言っておいて、何を今更。
 いつも自分はそうだ。喜備にも、英にも。もしかしたら、ケンにだって。
「――お茶を、淹れましょうか」
 場の空気を静かに、壊れものを扱うように春龍が変えようとする。そうだね、おお、と賛同する一同の中に混じってもいいものか亮は逡巡する。どうしよう。英を追い掛けて謝らないと。あんな風に言って、悪かったと。
 だから、亮は駆けだしていた。携帯電話のディスプレイもまだ彼女の連絡先を示しているが、互いの存在がはっきり感じられる次元で逢いたかった。だけど、もう英の姿はどこにも見当たらない。
 寒い風が吹く。どこからか流れてきた落ち葉がかさかさと音を立てる。秋の日は釣瓶落としなのだ。すぐに冬の胎動を感じる夜の冷たさが空間を支配する。
 亮君、と声がする。喜備だ。後ろを振り向けば彼女はそこにいた。苦笑にも似た少し気まずい微笑を浮かべながら亮を見つめている。――もう一人の自分という存在を抱えながら、彼女は常に誰かのことを心配している。自分のことしか頭にない亮とは、正反対だ。
 結局、彼女に手を引かれながら彼は紅茶館に戻って、英の土産のクッキーを食した。彼女も食べたのだろうか、亮が喜ぶだろうかと考えながら選んだのだろうかと、考えるのは英のことばかりだった。


 2      
みくあいトップ
小説トップ

inserted by FC2 system