あの日に見た夢のことなどとうに忘れ去って、亮は街角で英を待っている。夢というのはそういうものだ。眠りにつく瞬間でさえも人間は確固として感じることは出来ない。全てが忘れ去られる。まさに儚い。ただそこに残る夢の残滓は亮に僅かな寂寥と切なさを感じさせただけだ。
 秋風が吹いて亮は少しだけ身を竦めた。まだ十一月にもなっていないのに、遠からず冬を感じさせるようだった。しかし快晴だ。空は白々しい程青く冴え渡っている。白々しいなのに青かよ、と意味もなく呟いた。それで空の青さが変わることはなかった。
 午後四時にもうすぐ差し掛かる。亮は遊びに誘う友人や教室内にまだ残る喧騒を置いてきて英を一途に待つ。英の通う私立の小学校からこの三国市の繁華街・大庭までは少し時間がかかる。どれくらい大学を回れるだろう。平日じゃなくてやっぱり休日にすればよかった。でも休日だと大学のあらゆる機関が閉まってしまう。
 本当は今すぐにでも、英に会いたいだけなんだろう? とどこからか皮肉に笑った声が聞こえた。ここに知り合いは誰もいない。もう一人の自分の声だ。未だに自分の気持ちが整理できないままなのに、自分は英に会いたがる。心は英を求めてしまう。こんなのかっこわりぃ、とため息をついた。亮自身気付いていなかったが、それはここに来てからもう何度目かのため息だった。
「りょ、う、くん!」
 何度目かのため息を更に追加するところだったが、すんでのところで待ち人の声が亮の肩を震わせた。振り返ると走ってきたのだろうか、肩を上下させている英の姿。そしてにっこりと笑顔を見せてくれる。頬の花は薄いピンク色。可愛いなと自然に感じた。
「何ぼうっとしてるんですの?」
 制服で鞄も肩に担いだまま。彼女もまた亮と同じく一直線に来てくれた。
「いや、別に」
 見とれていたとは言えない。追究しなかった英はただ笑うだけで早速歩き出す。
「おい英。もっとゆっくり行ってもいいんだぞ」
「でも、時間が勿体ないですわ!」
 さあさあ、と英から繋がれた手を亮は離しはしなかった。街や商店街の賑やかさに目を奪われることもなく、大学行きのバスが通るバス停へと二人は向かう。
(いつもだったら、あれこれ寄り道するのにな)
 まあ時間がない所為だろう。やっぱりもっと余裕のある時間にすれば良かったなと己の計算不足を嘆くだけで、その他の意味を亮は考えなかった。だけど、不安だけは感じていた。
 いつもとどこか違う気がする。笑顔を見せてくれているのに、それは何かを隠しているような。
 大学について他愛もないことを英と話しながら、その違和感をもう一方で妙な気分で抱いていた。何だろう。ボタンを留め間違えたような齟齬。靴を左右逆に履いてしまったような居心地の悪さ。
「そういえば、こうやって二人でバスに乗るのは初めてかしら?」
 少しだけ丁寧な口調を崩して英は言う。独り言の範疇か、亮はとりあえずああと頷いた。多分そうだろう。そもそもあまり遠出をしたこともないし、乗るとしたら運転手つきの車か電車だ。
 バスの二人掛けの座席は少し狭い。いつも微妙に間隔を空けて座っていることを、亮は自分の膝と英の膝を見て初めて気がついた。二人の膝がこんなに寄り添ったことは、多分今までになかった。
 膝がこんなに近いなら、手と手だって触れ合える距離にある。
(傍にいたい)
 傍にいるじゃないか。けれどどうしてか今日の英は少し遠い。鏡に映る向こう側の世界、その世界にある鏡に英が映っている。そんなような遠さだ。どうしたって届かない。さっきまで引っ張られるように手を繋いでいたのに、だから亮は、手が取れない。
 触れ合った膝越しに彼女を感じるだけだ。それだけでも、随分尊いけれど、それでも。
(取れないんじゃない。俺が取らないだけなんだろう)
 亮はただ、待つだけだった。喜備の時も、今この時も。人知れず、拳を丸めた。




 後ろ向きな暗いことを考えるのはやめにしよう。三国大学のバス停が見えてきたところで亮はそう決心した。隣に英がいるのだ。全力で彼女に接しなければ申し訳がない。せっかくのデートなのだ。言い出しっぺの英よりも楽しみにしていたかもしれない。湧き上がってくる高揚感に密かに微笑んだ。亮君嬉しそうですわ、と英もまた変わらぬ笑顔を浮かべる。
「やっぱり喜備さん達の通っている大学だからですの?」
「それもあるけど、別にそれだけじゃねえよ」
 自分と同年代の子と一緒に来ることが今までなかったからだ、と本音は見せないでおく。英は聡い。微笑みは深まり続ける。
「わあ、学生さんが大勢いらっしゃいます」
 世間一般の学校でも帰宅時ということもあるが、やはり学生の数は多い。まだ四時限の授業は終わっていないだろうが、大体二時限目、三時限目の二コマの学生がほとんどだろう。と勝手に亮は推測する。行き交う学生達の姿は見ていて実に気楽なものだった。勿論、子供二人がモラトリアムを謳歌する学生の中に混じっていることを怪訝な目で見ていく者もいる。けれど英はどこ吹く風だ。
「亮君、音楽が聴こえてきますわ。部活動かしら」
「そうだなあ、吹奏楽部とかオーケストラとか、軽音楽部とか合唱部とか」
 講義棟からは離れているところだからだろうか、随分賑やかとやっていた。それで自分達のパートがちゃんとわかるのだからすごい。久しぶりに自分も音楽に触れたくなる。
「亮君のトランペット久しぶりに聴きたいですわ」
 タイミングを読んだようにそう英は言うのだ。
「よせよ、そんなに上手くないし」
「ならヴァイオリン」
「お前の方が上手いと思う」
「それならば歌はどうです?」
「歌ねえ。カラオケとか?」
「まあ! 『からおけ』!」
 一度行ってみたかったんですの! と強く腕を抱いてくる。庶民的な遊びを知らないところはまるでお嬢様だ。二人は自然と約束を交わす。そういえばこないだの紅茶館にいた春龍って奴はチェロが弾けるぞ、と話の流れも自然に戻した。なんてことはない平和な会話だ。喜備やケンとはまた違う充足感、それも随分久しぶりに感じるそれを亮は愛おしんだ。
 本当は工学の研究室等に入れれば一番いいのだろうけれど、あいにくと理系に知り合いはいない。資料館などがあるわけでもない。とりあえず図書館に向かうのがベターだ。その前に、と亮は購買へ寄った。やはり奇異な目を向けられるがそれも一瞬だ。たまに亮はこの辺りで喜備達とお茶をしていることもあるし然程ではない。学生達はそれぞれ一人の時間や二人三人の時間に戻っていく。可愛いとどこかで言われたような気がした。
「まあ、三国大学オリジナルグッズがありますわ」
「……こんなフツーの私立大にまで?」
 比較的首都圏に近いが都内ではない。私立ではあるがとびきり一流の大学というわけでもない。凡庸と日々を過ごし未来を何となく考える学生のために開かれている凡庸以上一流未満な大学と言ったところだ(しかし全て学外にいる亮の偏見であるし、そこに通う喜備達には失礼なのだが)それなのにオリジナルグッズとは、と亮は白ければいいのか大いに面白がればいいのか。
「ボールペンにシャープペンにノートにクリアファイルにメモ帳、お菓子まで!」
「ステーショナリーはまだしも食いものはいらんだろう」
「買いましょう!」
「買うのか?」
 だって、と不思議そうに亮を振り返る英。
「亮君は三国大学に入るんでしょう?」
「え?」
 俺がここに? と思わず床をじっと見つめてしまう。いつかは大学に入りそして家の会社の経営を手伝おうという漠然とした青写真はあったものの、どこそこに行くなどとはまだ考えてもいなかった。英はとても自然に言った。まるでそれがずっと昔から決められていたと言わんばかりに。歴史を語るように。
「何で? その根拠は?」
「喜備さん達がいるじゃありませんか」
「俺が入る頃にはとっくに社会人になってるじゃん」
「言い方を誤りましたわね。喜備さん達が入っていたからですわ」
 英はとても聡い。亮がどれだけ喜備たちに助けられたか、友情を感じているか、あの短い時間だけだったけれどきちんと理解したのだ。ただ子供ならではの大げさな酌量だった。
「別に……喜備達がいたからって、そんなちゃらちゃらした理由で決めねえよ。学びたいこととそこの大学で学べることを比較検討しながら決めてくもんだし、三国大学に入ろうなんて考えてもなかったよ」
「私は、亮君が行くと思っているので、この大学にしようと思ってますわ」
 勝手に決めるな、と口から出そうになったが思い止まる。自分よりもっといい大学が必要なのは――あるいは大学から必要とされているのは英の方だろう。英の研究が偉大な成果を挙げることは決して大きな夢ではないのだ。当然、この国の最高学府に行くべき。亮のように家業を継ぐまで適当に四年を潰すことは許されない。――彼女の家族のことが無くても、亮はそう思う。
「亮君と私の母校になる大学、というわけでグッズを買うのですわ」
 だけどそれはささやかな彼女の反抗なのかもしれなかった。その美貌の故に生家から疎んじられつつもその頭脳のために囚われている英。栄誉の為に大学への道がほとんど決められている英。その鎖にも似たレールを、彼女は引き裂いて、引き千切っている。夢見ることによって。夢はどんな剣よりも強い。
(まさか、そんな)
 無理に笑う彼女を見ているようだった。だけど夢は得てして遠いものなのだ。英はきっと亮に近付いてくれているのだ。だけどどこか遠ざかっている気がした。
そう。やはりどこか遠い。昼間に見る、限りなく透明に近い月のように。

 頭を振ってその思惑を振り払う。意外そうに自分達を見る店員のもとで会計を済ませ、ぼつぼつ周りを歩きながら亮は英を目的地へと連れてきた。図書館だ。大学の叡智の結晶がここで固まり、また蓄積され、そして新たに作り出される場所。
 玄関には喜備と美羽が待っていた。二人を見て喜備はにこやかに手を振る。
「ミク大にようこそ、お二人さん」
 目を細めた美羽がそう言う。ミク大とは三国大学の略称だ。と言っても、彼女達は「学校」とか「大学」とか言うので、使っているところはあまり聞いたことがない。
「お久しぶりですわ喜備さん、美羽さん」
 はいお久しぶり、と軽くウィンクする二人。幹飛はどうしたのか訊くと部活があるようだ。悔しがってたね、と喜備と美羽は笑いあった。
「やっぱり大学を見て回るなら図書館は絶対必要よね、歓迎するわ」
 デートにはあまり必要じゃないけど、と小声で呟く美羽。勿論亮を目の端に捉えている。それとも必要かな、静かな場所だし、と意味ありげに言ってくるのが何だかもどかしかった。幹飛や希威馬も大概だが、美羽のからかいもちょっと癖があって癪に障る。
「俺達だけだと目立つし、何か言われるかもしんないしな」
「私達は引率ってことなんだよね」
「なんだか学校で社会見学に来た気分ですわ」
 改めて英は図書館の全景を見ている。地下書庫が二階まで、開架は三階まである。私立大付属としては立派すぎるくらいだ。英が夢中になって読む工学系の本も勿論豊富にある。彼女が喜びそうだからここを選んだのだ。
 自動ドアをくぐり、センサーのついた入口を通ると、もうそこは蔵書の香りが静かに漂う学びの空間。勿論ここで喋る気などなかったが、二人は自然と無口になる。かわりにお喋りになるのは本の方だ。あらゆる書物が時と国を超えて読む者に語りかけてくる。
 英はそれを直感でとらえたのだろう。ふらふらと足取りはおぼつかなくても、すぐに専門の書棚に辿りつく。あまり人気のない書棚。一通り蔵書を見て振り向いた英の目はまるで涙が溜まっているようにきらきらとしていた。勿論泣いているのではない。
 すごくわくわくする! そう訴えているのだ。ここが図書館や書店以外だったら、とても賑やかにその想いを体全体で表現しただろう。すごいですわ、と今は小声で言うばかり。よかったな、と小声で、それでも彼女が本当に喜んだところを見られて万感の想いであることを隠さずに返す。
 専門外の喜備と美羽はただしげしげと背表紙に書かれたタイトルを見て回るだけだ。その一方でこれを読もう、あれを読もう、これも少しだけ、と片っぱしから本を抜きだし、空いているテーブルに持っていく。誰かがレポートや発表資料のために使うから少しは遠慮しろと言いつつも見ていて悪い気がするものではなかった。亮も自分の読みたいものをと二階にあがる。
 数分後、哲学の本をいくつかと経済学の本、そしていくつかの小説や全集、古典を持って英と美羽の待つテーブルに行くと、英はもくもくと本を読んでいた。専門外の亮にはよくわからない記述が彼女をあんなにも強く引き寄せる。
(ちょっと嫉妬か? これは)
 なんてな、と薄く笑った。
 美羽はレポートの下調べか講義の復習か、喜備は語学の予習をするらしい。真面目な二人は喋り合ったり眠りこけたりすることなく課題に向かう。亮も読書にしばらく没頭した。話し合わなくても良い空間は、閉鎖的に見えるがとても心地がいい。向かい側に信頼できる友達がいて、隣には密かに想っている人がいる。そんなこと思いながら。
 何度かページを捲った時だった。隣の英がこっそりとメモを渡してくる。授業中によく女子がやっていることだ。英もこんなことするんだな、と思いながら亮はメモを見た。
『何だかこういうの、新鮮でとても楽しいですわね』
 メモ自体が声を持って語りかけてくる。ちらりと隣を見ると、気付いた英は目を細めた。亮もメモの裏面にメッセージを書く。左利きだったから、書いて渡すのが右手よりスムーズに出来る。
『別に何か喋ったりしてるわけじゃないのにな』
 すっと紙が滑る音。向かいに座り課題を進める喜備と美羽は気付いていない。テーブルは結構大きく、距離があるのだ。秘密の会話。クラスの女子の気持ちが少しだけわかる。
『大学に入ったら、こうやって勉強しましょうね』
 紙が滑る音。
『でもお前は理系だろう?』
 また滑る音。静寂にそっと、微かな切り込みをいれる。
『理系でも、亮君と一緒にいたいのですわ。あ、亮君は理系にならないんですの?』
 またまた、滑る音。返事を書くペンの音。
『どちらかというと文系の勉強の方が性に合ってるんだ』
 滑る音と、少しの間。その後のペンが走る音。しかし文字を読む無音でさえもここでは音になりそうだった。
『今何を読んでるんですの?』
『漢詩だよ』
『漢詩? 中国の昔の詩ですか?』
 英はメモを送りながら亮の本を覗きこんでくる。漢字ばっかりでわかりませんわ、と囁く彼女は眉を下げて困った顔をしていた。詩吟やる小学生だっているんだから、わかるよ、と宥めるように亮は言う。その時、自分がとても優しい声をしているのではないか、と驚いた。だが驚いたからと言って別段何をするわけでもない。ただどこか甘い気持ちになって戸惑う。
 亮も英の本を覗く。しかし全くちんぷんかんぷんだ。理論の名前を言われても何となくわかっても、それでもすぐに靄の向こうに行ってしまってぴんとこない。住む世界が色んな意味で違うな、と囁きながら二人はまた読書に戻る。そしてやはり、ささやかな文通を行う。喜備と美羽にはもう気付かれているかもしれないけれど、こんな密やかな楽しみを英と共有したことはない。
 きっと後から思い出したら、この時間はきっと奇跡のようなものに見えるんじゃないか。誰に言われるともなく亮はそう思った。失われてしまうものだとしてもいいのだ。失われないものなど一つもない。今がこんなにも心地いいのだから、きっとその辺りで過不足を失くしているのだろう。ささやかな反抗を一つして、漢詩の本を閉じた亮は別の本に取りかかった。




 英文の最後にピリオドを打つ。これで予習は終わり。喜備の頭にちゃんと入ったかどうかは別であるが、解放された気分でペンをペンケースにしまう。
 窓の外はもう結構暗い。いつのまにか課題に集中してしまって、隣の美羽にも向かいの亮と英にも意識が向かなかった。集中したならいいじゃない、と自分の声が聞こえる。まさかと思う。七備の声。しかし動きを止めても何の声も聞こえてこない。あるいは自分の心の独り言だったのだろうか。七備のことは未だに掴み切れていない。仲良く出来ていると思っているけれど。
 ねえねえ、と隣の美羽が腕をつんつんと叩く。ん? と声にせず美羽に顔を向ける。きっときょとんとした顔をしていることだろう。美羽は穏やかな笑顔を浮かべながら向こうの二人を見て指さすので、喜備もそのままの顔でそちらを向く。あ、と声が漏れてしまい、微笑で口を閉ざす。
 二人は――本を開きながら、まるでここに集う学生のように、机に突っ伏して眠っていた。だがお互いに向かい合っているところが違うところだ。二人の間や傍らにはメモが散乱し、一方で一か所にまとめているのもある。互いの筆跡で何やら書かれている。きっとメモをやりとりしたのだろう。そして小声で喋り合い、本を読んでいる内に眠くなってしまったのだ。
「やっぱり子供だね」
「うん。可愛い」
 起こすのが勿体なかった。まるで二人同じ夢を見ているようだった。そんなことあるわけがないのに、二人から伝わる幸せがそう感じさせる。何より、亮のこんな幸せそうな寝顔を見るのは初めてだった。亮君、と喜備は心でそっと呼びかける。眠りを覚まさないように、夢を壊さないように。
(亮君は、本当の意味で、恋している意味で、英ちゃんのことが好きなんだよ)
 それはきっと英も同じ。だから悩む必要はない。亮は英にその「好き」の気持ちを、送り続ければいい。
 だからどうか、二人の未来が同じ空の下でありますようにと――きっとそれは確かなものだと信じながら、喜備は願わずにいられなかった。

    5   
みくあいトップ
小説トップ

inserted by FC2 system