しばらくして、彼はチェロケースを携えて戻ってきた。専用の椅子も用意し、お茶会は早くもちょっとした演奏会になりつつあった。大事に取り出した彼のチェロはまるで彼の子供のように思えた。大切に取り扱い、普段から愛おしんで音を奏でていることがすぐわかる。やっぱり照れますよ、と言いながらも、早くこの素晴らしさを伝えたいとうずうずしているようだった。
 ゆるやかに彼が奏でたのは、クラシックに疎い喜備でもどこかで聞いた覚えのある旋律だった。大きさからして低い音が出るのは当たり前だが、音色はただ重厚なだけではない。芯には優しさがあり、柔軟性のある流れを感じさせた。それはどこか奏者である春龍を表している。

「と、まあ、こんなものです」
「すごい」

 真っ先に幹飛が拍手した。たった五人の拍手だけど、暖かくて嬉しい、と弾いていないのにまるで自分のことのように喜備は感じた。

「クラシックわかんないけど、とにかくすごかったわあ。先輩、プロにならなくていいんですか? 勿体ない。せっかくお父さんが有名な人なのに」
「私がプロだなんて烏滸がましいですよ。あくまで趣味の範囲ですし、父はあんまり二世奏者を出したがっていませんでしたから、元々それほど興味は無いんです」
「謙遜だあ、先輩ってば」
「俺は今ヴァイオリンとトランペットやってるけどなー、チェロもいいかも」
「そういえばお坊ちゃまだったわね。トランペットは意外だけど」
「ああ、不良っぽいしね、何か。でもあんたじゃチェロは身長低すぎるでしょ」
「何だと? もう少しすれば成長期だからチェロくらいどうってことねえよ」

 ぷうと頬を膨らます亮にくすくす笑いながら教えて差し上げますよと言う春龍はやはり嬉しそうだった。まあ考えてやってもいいけど、とつれないくせに笑顔の亮やすっかり演奏に惚れ込んだ幹飛を見ていて、ようやく喜備はほっこりとした、新しい幸せにしみじみと浸った。

(よかった、みんなも先輩ももうすっかり友達だ)

 最初こそはどうなることかと心配していた。あんなに彼を警戒していた幹飛や亮もすっかり打ち解けて、お茶を飲みお菓子を食べ話に花を咲かせている。春龍だって、初めて会ったあの日、微かに見せた寂しさのようなものは片鱗すら伺えなかった。
 落ち着いた目つきで雰囲気に馴染む美羽と黄桜もお互い立場的に似たようなものを感じているのだろう、何やら話をしていた。大人の会話についていける知性があって美羽は羨ましいな、そう思い紅茶を飲もうとした。風味を味わいながら口をすっきりとさせて、喜備も話に加わろうと思ったその時だ。

 紅い液体に、誰かの影が映ったような錯覚が襲った。

 それに呼応するように声がする。


 ――そんなの嘘よ。
 ――友達なんて。


 まだ春になりきらないあの日に聞いた時よりも、その声はもっとはっきりと肉を持っていた。その分余計、喜備に響いた。まるで直接、耳元で話しかけられているとばかりに。いいや違う。自分自身が冷めた目を以てこの場を眺めて、心中で呟くばかりに。

 他でもない、自分自身が。

 ――本当馬鹿みたい。
 ――こんなのすぐに無くなっちゃうのに。
 ――何にも救えや、しないのに!

「あ、喜備さん。紅茶のおかわりはよろしいで――」
「やめて」

 声は明らかに震えていた。体全体がおののき、カップと紅茶が揺れた。
 場の空気が一瞬にして凍りついたことに、喜備は気付いていない。

「喜備さん……?」
「喜備!」

 当惑する春龍を尻目に亮が手を伸ばすが、撥ね退けられてしまう。弱弱しい打擲であったが、じんじんと彼の肌に速く、深く、そして痛く響いた。

「いや、やだ、こないで……!」

 縮こまった喜備のその声は、もう泣き声に近い。

「喜備、まさかあんたまた――」
「幹飛、駄目よ刺激しちゃ!」
「喜備さん、どうしたのですか」

 何も知らない春龍が手を伸ばす。異様な雰囲気に呑まれながらも、彼だからこそ心配してしまうのだろう。だが亮の分析が終わらない内に無生物の悲鳴が上がった。茶器が割れるその音は破壊の使者であるかのようだった。


「やだ、いや、いやあっ! やめて! こないで!
 私を奪わないで!」


 風が亮の頬を切る。その場を喜備が逃げ出したのだ、と気付いた頃には三国紅茶館の玄関のベルはとっくに響き終わっていた。


      
続く
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