「ん……この演奏……」
 美羽が悩ましげに口に指を当てながら何やら頭の中を探っている。
「もしかして、薄雲龍司の演奏ですか? 黄桜さん」
「美羽もそう思ったか? 俺も、聴き覚えがあると思ってたんだ」
「ご存知ですか」
 うんうんとわりと趣味が共通している美羽と亮のインテリなコンビは頷き合う。しかし喜備と幹飛の頭の上には疑問符が仲良く浮かんだ。
「誰? 薄雲なんとかって」
「ヴァイオリニストよ。結構有名。私も何枚か持ってるもの、彼のCD」
「映画とかドラマとかにも音楽使われてたんだけど」
 知らねえ? といくつか作品名が挙げられ、初めて喜備と幹飛は合点のいく声を上げた。
「……ん? でも薄雲って」
 亮が頭を捻らすが、そうでなくてもあまりお目にかからない珍しい苗字だった。しかし、今の喜備達にとっては身近な人物を指し示す。
「やだなあ、黄桜さん。何にも言わずに流すなんて」
 紅茶のポットと亮の分のおかわりを大事に携え、春龍は戻ってきた。しかしやや頬を赤くさせている。それは照れと柔らかな怒りが入り混じった複雑なものだった。黄桜は特に何も言わずのんびり紅茶を楽しんでいる。
「薄雲って苗字……珍しいとは思ってたけど、お前まさか、薄雲龍司の!」
「お気付きになられたのならしょうがありませんね」
 ポットをテーブルに置くと苦笑し、首を掻いた。

「ええ、薄雲龍司は僕の父です。ご愛聴頂いているようで何より」
「有名人の息子ってことじゃない」

 わあ、と喜備の体を軽く揺らし騒ぐ幹飛。彼女ほど騒がないが、喜備もすごいなあと口をぽっかり開けている。彼が長く外国で暮らしたのは、きっと父親の仕事や演奏の関係があったためだろう。美羽も亮も今までと少し違うきらめきの目で彼を見ていた。

「じゃあ、先輩も何か楽器が出来るんですか? やっぱりヴァイオリン?」
「ヴァイオリンも弾けなくもないんですけど、どうしても父と比べられるのが嫌なので」
 僕が弾くのはチェロですよ、とちょっと照れたように頬を掻いた。
「チェロ!」
「ゴーシュですか。素敵です」

 趣味程度ですよ、とはにかんだ。しかし黄桜がやけに視線を彼に飛ばしていることに気付いたのか、何ですかとどこかぷりぷりした様子で眉を曲げた。しかし黄桜は別段何も言わずただ紅茶を味わう。
「もしやこの店にチェロが置いてあって、たまに客に聴かせてるとか。なんてな」
 亮はどこか得意げな笑顔を浮かべスコーンをつまんだ。亮君、と春龍は呟く。微笑みながらもやや観念したような表情が見えるので喜備は首を傾げたが、もしかしたらと予感の芽が伸びる。

「ご名答です。あるんですよ、このお店は」
「何? 冗談のつもりだったのに」
「じゃあたまに弾くんですか? お客さんの前で」
 喜備の予感の芽はそう嬉しそうに言葉になった。
「ごく稀にですが」
「勿論、今がその「ごく稀」なんだろうな」

 飄々とカップを傾ける黄桜に黄桜さん、と忌々しげに春龍は迫るが、ちっとも動じていないようだった。見た目や雰囲気からは考えられないが、どうも黄桜は割と茶目っ気のある人物なようだ。喜備は悪いと思いながらも目を細めた。

「先輩、出来たら聴いてみたいです」
「喜備さんが仰るなら、仕方ありませんね」
「老人は無視か」
「まだ老人という歳でもないでしょうに」

 それにあなたが希望したんでもないじゃないですか、とやはり苦々しげに言いながらも、楽器を取りに向かうのだろう春龍の足取りはどこか楽しそうだった。

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