春龍は喜備が乱暴に開けた扉を茫然と見つめたままだった。なのに、少しこちらに体を向けた時に見たその目は、視界には何も映っていないと言わんばかりだ。あまりの事態に瞬きすらも忘れていると言えそうだ――そう冷静に分析している場合じゃないということを、亮は勿論解り過ぎていた。
 だから逃げているのだろう。自分の犯した過ちから。
「何か、私は悪いことをしてしまったでしょうか……」
 呟き程度だったが、大きく聞こえるのはここが静寂の底に引きずり込まれたためだ。さっきまであんなに楽しく話をして、美しい音色さえも流れていたというのに。暖かく見える装飾やお茶菓子も、どうしてか冷たい影を落としている。喜備の精神の奥底に隠れた存在が、ほんの少し存在を匂わせただけで、全てを裏返しにしてしまった。
「違う」
 春龍にそう返し、亮は頭を抱えた。
 そう、違うのだ。それらの元凶は喜備ではなく、全て自分にあるのだ。眠れる恐怖であった彼女を現世に出したのは、自分なのだ。亮君? と春龍はますます困り顔を深まらせていく。
「全部、俺が悪いんだ」
 自分で聞いても、悲痛な声だった。悪いのは自分なのに、まるで被害者のようで、ただ腹が立った。やるせない憤りを自分に向けるから、亮はやはり追い詰められていく。罰としては十分過ぎるほどだ。だけど、きっとまだ足りない。彼女の笑顔を、他でもない彼女自身に奪わせる。一体何の冒涜だと言うのか。
「亮」
「そんなこと……」
 美羽と幹飛が亮の肩に手を伸ばす。その手は暖かかったけれど、二人とも言葉の歯切れは悪かった。そう遠くない過去を思えば、当然のことだ。
 何があったか当然知る由もない春龍と黄桜はただ無言だった。顔を上げれば、黄桜は気難しい顔をなお渋くして自分の紅茶を見つめている。そして立ち上がり、喜備が落としたカップの残骸を丁寧に拾っていった。まるで骨を拾うように見えて、亮は頭を振ってその幻の残像を消した。もう一度顔を伏せて、喜備はどこへ行ったのだろうと想いを馳せた。そうするとやはり同じように悲哀と煩悶が去来する。
 もう、この場所にはいられない。
「亮君」
 席を立った亮に真っ先に声をかけたのは春龍だった。一度振り返る。困惑の表情は変わっていない。そこに見えるのは紛れもなく優しさだった。自分よりも大人な彼を出し抜こうだとか、安っぽい嫉妬を抱いたことも恥ずかしく、そして殊更悪く思えてきて急いで紅茶館を出た。だが彼は店の外まで出て、ついに亮の手首を掴んだ。少し強い。大人の男性らしさを直に感じた。それはどこか恐怖をも伴う。彼にこんな強引さがあったのか。

「ごめんなさい。でも、喜備さんに一体何があったのか、どうして亮君が悪いのか」

 教えてくれませんか、と言葉を閉めるその声も、表情と同じように戸惑いの色は当然濃かった。
 自分に最初から、逃げ道などない。そう思って亮は口をゆっくりと開き始めた。

 喜備と深く関わろうとするなら、本当の友達になろうとするなら――知っておかなければいけないだろう。


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