あいつのものには手は出さない。それは鉄則だった。
 それこそ生まれた時からって言っても過言じゃない。俺の家は長谷川の分家に過ぎない、下手に振舞ってはいけない。幼いころから親にそう言われていた。長谷川家は何代も続く家で、それを継ぐ者は兄弟という概念を越えて偉いのだという。
 俺はあいつの、従兄弟に過ぎない。それを了解した上で俺は俺なりに生きてきた。生きてきたはずだ。でも本当のことを言われるのが嫌で、うやむやに生きてきたような気もする。
 一人、駅のあたりまで買い物に来てそんなことを考える。ぼーっとして歩いているとますます考える。答えなんて解りきっている。俺は暮葉がコンプレックスになって、俺は俺なりに生きてこられなかったってこと。それが社会人になった今でも続いているということ。そして俺は――別に状況を打破しなくてもいいと考えていること。
 打破しなくてもいい。このまま、今までのまま、生きていけばいい。だけど、俺の脳裏を掠めるのは香織さんの存在だった。
 津幡香織。
 俺はいつからか香織さんの元へ暮葉を届けるのが楽しみになっていた。俺は家には入れないのに、あの人の半径百メートルくらいにでもいいからそこに、いたかった。そしてそこに暮葉がいなくて、香織さんと俺だけいたらどんなにいいか考えた。考えて、俺はそんなのは駄目だと妄想を中止した。駄目だ駄目だ。
 あいつの後ろにいなくちゃな。
 今もそう考えていたから、頭を乱暴に掻く。そして目的のものも買ったし帰ろうと駐車場まで歩き始めた。もう日が沈みかかっている。
 人ごみの中、俺は歩く。その日もいつも通り、何事もなく一日が終わるんだと思っていた。
 あの人が、声をかけなければ。
「あの!」
 雑踏の中で声が聞こえた。最初は俺に向けられたものじゃないだろうと聞き流していた。だけど、何度も何度も声が上がる。何だろうと振り向いた。
 そこには――香織さんがいた。
「あの、人違いかもしれませんけど、もしかして暮葉さんの……」
 俺は、呆然として息を飲んだ。
「そ、そうです、そうです、柳沢です! 柳沢、兼光」
 目を白黒させて早口になった。そこにはいつもよりうんと近くに香織さんがいるのだ。香織さんがどういう顔のつくりをしているか、髪の色はどうか、どんな香りか、どんな服装か、どんな声か――全部、目に耳に鼻に、彼女に関する情報が入り込んできて処理が追いつかない。
 香織さんは笑った。
「いつも、お世話になっています」
「いや……それはあなたの台詞じゃないでしょう」
 暮葉の顔が浮かぶ。憎い。あいつが言うお礼なんてこんな嬉しくなるものじゃない。
 人気のない、山の近くに住む彼女が何でこんな人ごみに溢れる駅にいるのかそれとなく訊いてみると、笑ってはぐらかされた。しかし冷静に考えてみれば人気のない所にいるからって、ありすぎる所に行かないわけはない。買い物とかだったんだろう。
「……必要なものは、暮葉さんから送られてきますんで」
「買い物、行かなくていいんですか」
 ええと香織さんは薄く笑った。
 なんだか無性に腹が立ってきた。時代劇とかに出てくるお妾や娼婦みたいだった。そんな立場に香織さんを置いておけるなんて、無神経なやつと俺は暮葉を罵倒する。
「顔色、悪いですよ」
 彼女がそう言う。俺は知らず知らずの内に心の表情が外側に出ていたことを知り、きまりが悪いので苦笑いをして紛らわせた。すると彼女も笑った。
 タクシーで帰るという彼女を俺は送っていくことにした。その時も緊張して、舌を噛みそうになるほど焦りながら提案した。何度も彼女は悪いです、と言っていたけど押して押して押しまくったら、じゃあ、甘えさせて頂きますと、また笑った。






 いつも暮葉が乗る場所に、香織さんが乗っている。いつも通りに運転しようと思うのにどうも、ぎこちない。俺が緊張しているのが他人の目からでもわかるんじゃないか? と思うくらい、あからさまにそわそわしていた。とりあえず洋楽を流す。落ち着いてくる頃にはもう空は暗かった。そして空の明かりは――月だけだった。我が物顔で空を支配する太陽とは違い、ひっそりと空を支えるように光る月。
「月」
 香織さんは言った。
「綺麗ですね」
 それを聞いた瞬間、俺は何かを思い出す。その言葉は、暮葉を初めて彼女の元へ送った時に、暮葉が――黙って眠っていた暮葉が突然放った言葉だった。
どうして、そんなこと覚えていたんだろう。
「ええ、綺麗……ですね」
 俺は月なんか見えてないのに、そう言った。

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