香織さんの家は一人で住むには広すぎだ、という印象を抱いていたが、本当に一人で住んでいるようだった。家族じゃなくても、誰か女友達とかと住んでいても、まだ部屋が余るんじゃないかと俺は変にきょろきょろしてしまう。香織さんはあの日と変わらない穏やかな笑顔で俺達を迎えた。家の中に入るにつれて、何か心をやんわり包むような、心地よい香りが辺りに漂っていることを知る。
「アロマです。ちょっと、凝ってるんですよ、今」
 香織さんははにかんだ。確かに、居間の入り口近くにキャンドルが灯っていた。ぼう、と蛍光灯の明かりのもとで、蠟燭は自然の炎で独自の光と香りを放っていた。いい香りだった。俺の体が即座にこれは香織さんの香りなんだと訴えて、妙にどきどきした。香織の香りなんて、と心中でつまらないことに笑い、それをごまかそうとする。
 暮葉と香織さんはDVDを観ている。俺は想いを割り切ったはずなのに、画面を見ずについついいろんなところを見てしまう。香織さんの画面に見とれている横顔や、体の曲線、わずかな指の動きや、まばたきや、揺れる髪――そして彼女を離れて部屋のいろんなもの――壁にかかる絵や、本棚に並ぶ本、中には絵本のようなものも数冊、炎の揺らめくキャンドルや、壁のシミや、カプセル剤のゴミが捨てられているゴミ箱まで見てしまった。
 突然、自分が汚いものになった気分に襲われる。映画に夢中の二人を置いて、俺はなんて気持ち悪いことをしていたんだ。香織さんが知ったら絶対に俺を嫌うだろう。俺は汚いものという自覚をぎゅっと体に込めて意識を画面に集中させた。だけど、映画は途中から見ても全然面白くない。つまらない。――俺はキリのいいところまでずっと、香織さんを見ていたように思う。
 立ち上がって帰ることを告げた俺を二人は止めた。今いいところなのにー、ここから面白くなるんだぜ、と本当に残念そうに暮葉が言った。でもやっぱり遅いですもんねと香織さんが言った。暮葉の言葉を香織さんが言わなくてよかった、そんなことを思う。
「悪いな暮葉。明日の仕事の所為でやることあってさ。今日は泊まってけよ。帰りは家の車でも呼べ」
 俺はまた、なんてことない風な顔をした。少なくとも自分ではそのつもりで。暮葉はしょぼくれた顔をして妙に残念そうにわかったと呟く。恋人と夜を過ごすのは普通のことなのにそんな残念そうな顔をするなんて、香織さんに失礼だ。そう言ってやりたかったけど、映画もいいところらしい。俺は暗い廊下を歩いた。
 あの香りが、ふいに俺の鼻先を掠める。気づけばあの気持ちの悪さは少しおさまっていた。はっきりと残るのは、ただ自分の心を自分で押し殺しているんだなという、客観的で冷たくて、何の感情もない自覚だけだった。

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後編に続く
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