目的地に着いたのは午前一時を過ぎたころだった。ここが市内なのかと思わずにはいられないほど、森や山に近い場所だった。完全に田舎だ。月の光がやけに明るい。まるで怒っているかのようだ。まさか俺が運転の方に集中して全然月を見なかったからじゃないだろうな、と変なことを考えてしまった。
 車の光で少し、目的地の家の様子が見える。周りの木々や植物はどれもこれも鬱蒼と茂り恐ろしい暗闇が点在していて、何やら不気味な鳥の声も聞こえた気がして、果たして「荒れた庭」という名称でどこまでカバーできるだろう。家の方は古びた木造建築で、やけに広いが、移動手段である車や自転車がない。ここに女が一人住んでいるとは思えなかった。だから訊いてみた。
「一人で住んでるぜ?」
「マジかよ」
 俺がぼーっとしながら微かな光を灯しているその館を見つめていたら、暮葉が「津幡」と言った。
「え?」
「津幡香織。ここに住んでる子の名前」
 心なしか、月明かりに照らされる暮葉の顔は赤かった。まあ、酔っている所為もあるだろうが――何か違う「赤さ」を俺は奴の頬の上から読み取った。
「じゃ、な」
 颯爽と、暮葉はその館へ向かって歩き出した。数歩歩いたところで扉が開く。月明かりとは違う人工的な光が漏れ出した。そこには女がいた。
 暮葉より背は低いし、年齢も下のように思えるが、不思議と彼女は俺達よりも大人びて見えた。暮葉を見て微笑む。月の光のような微笑。
 二人が家に入っても俺はその場に立ち尽くしていた。それに気がついたのは風に吹かれたからだった。もう俺の役目は終わっている。帰らなければ。
 しかし車に戻ってみても、帰る気にならなかった。
 あの人の微笑が、妙に頭に残っていた。
 眠い。暮葉はこんな田舎から明日どうやって帰るんだ。どうやって、どうやって。
 あの人のあの微笑み。月の光。微笑み。……まどろみの妖精が俺の体に止まる。
 暮葉のやつ。お前なんて。あの人は。あの人とも遊び、なんだろう……。俺は様々なことをまどろみの中に溶かした。主に暮葉への憎さと、羨ましさと、そしてあの人のことだった。津幡香織。
 ああ、そういえば、女の名前なんて、教えてくれたの初めてじゃないか……。
 そうして、俺はそのまま眠ってしまった。








 コンコンという音で俺は目を覚ます。見ると暮葉が車の窓を叩いていた。眠っていたんだ、と慌てて飛び起きる。車から飛び出た。
「やっべえ……寝ちまってた……」
「熟睡してたみたいだった。あー落書きしたかった」
「お前なー」
 時計を見る。午前二時過ぎ。なんだ、大体一時間しか経っていない。泊まらないのか? と俺は家の方に目を向けた。
 あの人が扉の近くに立っていた。目が合う。彼女は頭を下げた。俺も慌てて頭を下げた。目が合っていたんだろうに、距離があり過ぎて顔が解らない。月明かりと家の明かりだけではおぼつかない。
「今日は家に帰る。ここへはまったりしに来ただけだし」
「あっそ」
 俺がいなかったらどうやって帰っていたんだよ。そんなニュアンスを含めたのだが、気付かない暮葉は翻って彼女――香織さんに手を振った。彼女は微笑んで手をひらひら振る。俺は目を逸らした。何だか、遊び人の暮葉にしてはピュア過ぎるから見ていられなくなった。
 車に乗り込んだが、俺は若干残っている眠気を散らすために眠気覚ましのガムを探す。見つかったら俺にもちょーだいとのんきに暮葉が言ってくる。なかなか見つからない。ふとサイドミラーを見た。
 あの人はまだ扉の近くにいた。
 月を見ているようにも見えたし、車自体を見ているようにも、暮葉の後ろ姿を見ているようにも見えた。俺達が乗ってからだいぶ時間が経っているのに、そこに彼女はいた。
 俺は動きを止めて、鏡に映る彼女を見ていた。
「お! あるじゃんあそこに」
 暮葉の声で現実に戻された。動き回ったせいで実はもう眠気なんてすっ飛んでいた。
 ――いや、まだあの人がこちらを見ているということが原因だろう。
 ガムを噛み、ようやく車を動かした。俺はまた鏡に目をやる。少し見にくいが、まだ彼女はいた。きっと俺達が見えなくなるまで、彼女はあそこにいたのだろう。きっときっと、暮葉を見送っていたのだろう。

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