言霊が放たれて――目も拳もぎゅっと固く閉じていた。唇も噛みしめていた。
 静かな浜で、愛しい人の名前が木霊する。少なくとも、カーレンにはそう聞こえた。今まで一言も呼んだことのなかった、けれど愛しい人の名前は、精霊が舞うように、あるいは一日が始まる曙の光のように、浜辺に広がっていった。カーレンの脳裏にも熱く熱く刻まれた。
 どれだけそうしていただろう。目を開く。
 彼がいなかったら、悲劇を通り越してとんだ茶番だ。このまま、海に沈んで死んでも悪くないだろう。
 そう思いさえしていた。涙は乾かずにまだカーレンの視界を潤ませていた。
 砂浜も、風に揺れる木々や花々も、海の蒼さも、空の青さも、太陽の光も、何もかもが涙によってその姿の境界線を緩ませていた。


 しかしだ。それでもだ。中心にいるのは、確かな姿を結んでいるのは――青い髪の、すらりとした細身が美しい、青年だった。


 まだ、そこにいた。


 あまりにも自然な速さで、カーレンの涙は一筋、優しく流れた。
「……ふう」
 くるりと、しなやかな身のこなしで彼はこちらを向く。
 スピカだ。
 色白の顔を真っ赤にして、それでも素直にカーレンを見ていた。
「ようやく呼んでくれた。
 僕は、ずっとそれを――待ってたんだからな」
 スーちゃん、と吐息のように彼女は言う。
 この浜辺は、ひどく静かだった。互いの呼吸の音も鼓動もわかってしまうのではと思うくらい、静寂が場を支配していた。
 スピカが照れてやや小声で言った言葉でさえも、離れていても確かに相手に届く。
 どんなに放心した状態であろうとも、カーレンの耳朶を震わせる。
 彼女の心に届く。
「スーちゃんっ……」
 カーレンは駆け出した。スピカの足跡を踏みながら。二人を裂く距離ではなく、繋ぐ橋としてそこにある。
 そして、スピカに抱きついた。あまりにも自然に、そうしていなかったのが不思議なくらいの速さで、カーレンは愛しい者の胸に身を預けた。
「スーちゃん……! 本当に本当にスーちゃん? スーちゃんなんだよね」
「だから、スピカだって」
 苦笑して、しかしスピカもカーレンを抱きしめた。
「でも、もうどっちでもいい」
 愛しい彼女を抱擁する彼は――生まれて初めてという程の幸せな笑みを浮かべていた。

 スピカが待っていたものは、名前であった。ほんの記号に過ぎないながらも、人物を一生縛る、それはさながら呪いに似た何かであった。カーレンが一度も、彼女の声でスピカという名を呼んだことが無いことに、いつからだろう――彼は、運命が外れる何かを感じていた。
 しかしカーレンが呼ぶならもう、何だって受け入れられる、そんな確証も根拠もない迷信のような予感なども無視できると、スピカは自身と彼女を包む愛しさに深く誓う。


 これまでと、これからを繋ぐもの。変化した世界がこようとも、もう怖くはない。それも、愛しさに誓える。
 もう彼女を、そして自分を、不必要に悲しませず、痛みつけないように。


「怖かったよ……」
 スピカの胸に吸いつくように身を寄せながら、そうカーレンは呟いた。スピカがおののくような震えを一瞬感じたのは、その呟きによる振動だけではないだろう。
「スーちゃんが、もう私のところからいなくなっちゃうって……」
 カーレンも、震えていた。
「そんなのやだ、やだったの!」
 体を離し、カーレンはスピカの肩を二、三軽く叩いた。痛くはないが、スピカはなすがままにした。当然だ。それ以上の痛みが必要なほど、彼はカーレンに酷いことばかり重ねたのだから。う、とカーレンが少し高い声を漏らし、顔を覆う。
「未来は……スーちゃんと一緒に生きたいから……。私は、そう、決めたの」
 二人は見つめ合う。カーレンの赤い瞳は、涙に濡れてますます鮮やかに景色に映えた。
「お姉ちゃんを……殺してしてしまった、あの時だよ。華北に飛んでいった時、シュリちゃんに言われて、私は、初めて気付いたんだよ。
 私は……今を、未来を、これからを、誰でもない、スーちゃんと一緒に生きていきたいんだって」
 真っ直ぐだったその瞳も顔も、だけど、と口が紡いでからは段々と俯いてしまう。
「だけど……そんなの、私の勝手でしょう? スーちゃんが、スーちゃんが、嫌、なら……」
「カーレン」
 スピカは彼女の手を取る。彼女は何も抵抗しない。細くて小さくて、刺青の走った手は、何も言わずに彼の手との繋がりを強めた。
「嫌なんかじゃない。そんなこと、あるわけない」
 そのまま引っ張って、スピカはカーレンを抱きしめる。
「……覚えてるか? お前と初めて会った頃、ここでお前が僕を抱きしめてくれた」
 行こうと、手を伸ばしてくれた。激情に慟哭したスピカを救った、それは光だった。
「あの時から、僕はきっと、ずっと」

 そう。失くすはずがなかった。忘れるはずもなかったのだ。
 もしそうだったなら、今ここに、自分はいない。

「……カーレンと一緒に生きていきたいって、思ってたんだ。
 僕の方がずっと、ずっと前から」

 スーちゃん、とカーレンはただ熱を込めて呟く。
 それ以降、お互い何の言葉もない。だが、心地がいい。互いの鼓動だけが独自の言語のようだった。返事の代わりに、カーレンは強く彼に身を寄せる。
「――本当は、一杯喋りたかった。こうやって、抱きしめたかったし、その……」
 きょとんとした顔のカーレンは上目遣いで疑問符を浮かべた、が、ぎこちなくスピカは目を逸らすだけだった。
「な、名前がどうとか、くだらない意地張らないでさ」
 顔が余計に紅潮しているのが自分でもわかっているのか、目を逸らしたまま続ける。
「スピカ……」
 泣き腫らした目をしたまま、上目遣いのカーレンは彼の名を呼ぶ。愛称でない本当の名前を。唐突だった。だから余計にスピカの頬は赤く染まる。
「スピカ、スピカ」
「なっ、何だよ!」
 恥じらう彼をからかう意図もあるのだろうが、ううんと首を振りカーレンは無邪気に微笑した。ほんの少し前まで悲しみと切ない痛みに涙していたことを信じられなくもあったが、涙は未だ流れている。
「綺麗な名前だなって思ったの。何度でも呼んでおけば良かったって」
 呆然としてスピカもまた、カーレンと彼女の名前を呼ぶ。向かいの姫はうん、と頷く。
「美しい言葉、スーちゃんのだけの言葉だなあって」
 涙が陽の光に照らされて、カーレンがスピカにはただただ眩かった。よせよ、とつい苦笑してしまう。それとね、とカーレンは笑みを深めた。
「昨日見たお星様のスピカも綺麗で、美しくて、素敵だったけど」
 ね、とはにかむ彼女はその指でそっとスピカの頬に触れる。

「私には、スーちゃんがいっちばん綺麗。スーちゃんが一番美しくて、一番素敵」

 頬だけで無いだろう。
 カーレンの指は、そっとスピカの心にも触れていた。
 頬に当たる指の熱を感じながら、スピカは少し俯く。ぽつりぽつりと語り始める頃には指は離れていたが、互いの指が絡まり合っていた。
「……旅が終わったから、やるべきことが終わって何かが変わっていくからって、僕らの距離も変わってしまうかもなんて、馬鹿みたいな発想に怖がらないで、素直になっておけばよかったんだ」
 ごめん、と、焦ったような口調が続いたが、最後はゆっくりと、静かに閉じた。
「本当に、ごめん……」
「スーちゃん……」
 スピカはより深く俯いた。カーレンは身を少し離し、彼の頭を撫でた。
 それに驚いて顔を上げると、二人はちょうど見つめ合う形になった。


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