一夜明けた。カーレンは気持ちのいい朝日の温もりで目覚めるが、すぐに現在の問題を思い溜息をついた。上体を起こし、何をすべきかを考える。
(一度、島に戻ろうかな。……スーちゃんに、付き合ってもらって)
 仲間内でまだ自分の郷里に帰ろうとする者はいないが、そろそろ出てくるのも時間の問題だろう。
(でも、一緒に行って、くれないかも)
 その時は――カーレンは指を組む。祈るように。
 里見に残らないで、そのまま火の島へ帰って、元通り、巫女として暮らしていこうかと思うが、胸の内から突き上げる何かに耐えきれず、くう、とカーレンは唸る。熱いものが眉間を焦がしていた。
(もし一緒に行ってくれて……何かが変わってくれればいいけど、もし、もし、変わらなかったら……?)
 自分の思考に激しく首を振る。これ以上、悪いことは考えたくないと、零れそうな涙を拭った。
 火の島を選んだのは、カーレンの直感である。ここではないどこかで、火の島でなくてもいいはずなのだ。しかし、自分の故郷に何かを感じた。李白の言っていた根拠のないことと、あやふやさにかけては引けを取らないだろう。
「スーちゃん!」
 城で、書庫にでも赴こうとしているスピカの後ろ姿を見かけ、呼び止めた。やや大声だったのを秘かに恥じ入ったが、彼は気付いているだろうか。
 スピカは立ち止って、少しだけカーレンの方を向く。
「あのね――火の島にね、一度、帰ろうと思うの」
 それでも、何故かいつもより大きな声を出してカーレンは言う。カーレン自身不自然に感じていたが、弱る自分が心の中にいる為であろう。
「それでね、スーちゃんに、付いてきて欲しいんだけど」
「わかった。いいよ」
 スピカの答えは素早かった。そしてその場から離れていくのも早かった。成功したのか失敗したのか、状況を把握できない程で、カーレンは目を白黒させている。
 この一連のことを、何処から聞いたのかオーレは太望達にこう話す。
「多分、火の島だからだと思う。こだわるねえ」
 乙女座だから? と一人オーレは首を滑稽そうに傾げた。
「どういうことじゃ?」
 彼の言わんとするところがわからず、太望達もまた首を傾げた。
「賭けだよ」
 そう言い、オーレは懐から煙草を取り出した。吸おうか吸うまいか、躊躇する素振りを見せて結局彼は懐にしまい直した。
「賭け?」
「そう。カーレン君が何かに気付けば二人は帰ってきて、気付かなかったら、お終いだろうね」
 太望は眉を顰めた。
「またオーレさんは……。スピカさんと出逢った時もそうじゃったが、一人だけわかっていてもこっちは不愉快じゃよ」
 ごめんごめんとオーレは苦笑し、部屋にいる仲間達には自分の推測を教えてあげようと口を開いた。









 出発までの日々は何事もなく過ぎた。嵐もなければ体調不良もなかった。ただ、一緒に出発するというのに、スピカとカーレンの仲だけは、主だった特徴は見えないものの、誰の心にも一層雲行きが怪しくなっていくように見えた。
 船乗り場までの道が、カーレンにとって耐え難いものだった。同じようにスピカにとっても耐え難いものだった。負の想いがそれでも寄り添うように一緒になり、二人は歩いていた。そして船へと辿り着く。
 火の島への直通船が出ているわけではない。いくつもの島が集まって出来ている、国よりは小さな共同体の一つが火の島であり、その中央的な役割を担う島・土の島への便が出ている。安房から、土の島までは遠い。船中で幾夜かを過ごす。
 スピカは船中での存在が疑われるほど、カーレンのもとへ姿を現さなかった。具合でも悪いのか、ずっと船室に閉じこもっている。
 カーレンは仕方がないので、甲板の上に立ってみたり、座ってみたり、海をただ眺めていたりした。どこまでも青く、深く、留まることを知らないような大きな水たまり。言いようのない恐怖を呼び起こすものだったが、今では不思議と怖くない。カーレンの赤い瞳にぼんやりと映し出されているだけだ。
 今怖いことは一つだけ。スピカとのことだけ。
(島へ行くことは間違いだったかな)
 何の言葉も交わしてくれないスピカに、カーレンはそう思う。島に置き去りにされるのではと思うと、南の島へ近づいているというのに心は寒々としてきた。
 涙をひとしずく、世界を繋ぐ大海原に落とした。すぐに母なるそれに一体化し、波に呑まれ、荒々しく揺れて、彼女のものでは無くなった。


 そして夜が来る。眠れないカーレンはまた海を見、星を見ていた。船上の夜は体全体が凍える程冷たい。それでも、カーレンの体は悩みで熱さを保っていた。
 星はやはり、何の意味もない、巨大な絵となってカーレンの頭上に広がっていた。この広さの中――自分とスピカという二人の関係など、どうでもいいじゃないかと、秘かに囁いてくる。それに従えば、楽になれるのだろう。けれども大事なものを失うのだろう。そしてきっと、もう二度と手にすることは出来ない。
 二つ、三つ、息をついた時だった。
「眠れないのか」
 思わずきゃあと叫んでしまってから、口を押さえる。後ろには、少し苦々しい顔をしたスピカが立っていた。スピカは近くの壁に背を預け座った。何度か瞬きをし、カーレンも、少し近くに座る。ちょうどいい距離を取るのに、やや迷った。
 二人は、示し合わせたように、星を見上げる。
(あ……そういえば、スーちゃんの名前って……)
 スピカの名前の星について、かつて火の島で訊いた。スピカはずっと上を向いている。星の美しさに見惚れているのだろう。邪魔するのは悪いと思った。そう思いながら、カーレンは彼の、星明かりと月明かりに仄かに照らされる、彼の洗練された美しい横顔に、ずっと見惚れていた。彼が気付かないなら、このままずっと見つめていたかった。まるで横顔に恋をしたかのようだった。

 だけどカーレンが好きなのは、たったひとつ、たったひとり。
 スピカだけだった。

「ねえ……」
 声だけでも、もっと傍に行きたい。
「スーちゃんの名前の星は、どこにあるの?」
 自然と、彼女は訊いていた。スピカはカーレンの顔を見やってから、再び上を向く。そして手を伸ばす。カーレンの目に映る白い、すらりと伸びた白磁のような腕や指は、カーレンに愛しい鮮やかさをもって迫った。
「あそこ」
 ついとカーレンは顔を上げる。スピカの指先にある星を探す。同じものを目に映したいと、ささやかで大きな願いが動く。
「あの、白い星」
 確かに、カーレンの赤い目に一つ、白い星が映し出される。海に眠る真珠が天に架けられたように、純白に、気高く、光っている。星空という海で、あの星はたった一つの真珠なのだ。そう思いながらスピカの方を向く。
 カーレンという宇宙の中で、たった一人、スピカが大切な存在であるのと同じように。
「綺麗、だね」
 それを聞くやいなや、何故かスピカは立ち上がって船室に帰ってしまった。甲板上にカーレンが独り残る。肩に冷たい風が吹いて、鳥肌が立つ。上を見ると、未だにその白い星は自らを主張するかのように光り輝いている。
 また風が吹いて、今度はカーレンの髪をどこか優しく靡かせた。そう感じたのに、どうしてもカーレンは自分の涙を止められなかった。涙さえも、風は優しくさらっていった。

   4   
プリパレトップ
novel top

inserted by FC2 system