夜が来た。
 カーレンは眠らないでいた。独り、城の内部へ入り込み、見晴らしの良いところを探した。
 月が明るく、星も負けじと明るい。
 カーレンは空に近いところで星を見たかったのだった。足は自然に高い所を目指し、気付けば天守閣に来ていた。
 そして星を見る。数え切れない程の星粒を、わかる人は見えない糸で結んでいく。そうでない時――結ばれない時の星空はカーレンを威圧してくるように思えた。
 形のないものは怖い。ふとそんなことをカーレンは思う。漠然としたものはいたずらに人を不安にさせる。
 以前にスピカと星を見ていた時のことを、カーレンは思い出す。その時二人は形があっただろうか。不安だったろうか。
 そうでなかったように思えるから、カーレンは心が段々と悲しみの斑点で病のように汚れていくことを知る。
 火の島で自分を抱きしめてくれたことも、黒い紐を受け取ってくれたことも、水に沈んだところを助けてくれたことも――全てが夢だったのではないか。そう思わせる程、スピカの冷たい態度はカーレンには厳しく突き刺さり、存在感を強めている。
 風が吹き、カーレンの瞳に添えられた涙は星屑のように流れて消える。カーレンの背後で何か物音がしたのはその時だった。
「……シュリちゃん?」
「一際暗い顔してんじゃない」
 闇夜に溶ける黒衣のシュリも、今宵の月明かりにはっきりと姿を現す。
「……元気ない理由くらい、わかってるけど」
 どこか申し訳なさそうに彼女は言った。
 カーレンを立ち直らせたのはシュリである。スピカと生きる未来という答えを発した第一人物だ。だが、カーレンは少し顔を俯けたままで何も言えなかった。
「眠れないのですか」
 シュリの後ろから、李白が現れる。
「なんて、白々しいですわね」
 李白は目を伏せ、困ったように笑う。
「本当は、知っていますよ」
 カーレン姉さまっと今度はチルチルの声がした。子供が起きているには厳しい時間帯だったので、三人は目を丸くする。
「ずるいわ姉さま方。わたしもまぜて」
「いつのまについてきたのよ。子供が聞いてもわかんない話するんだから、ほら、帰んなさい」
 しっしとシュリは手で払うがチルチルはむうっと唸ったまま動かない。李白の困っている笑いは続いていた。
「みんな……」
 三人とも、自分を慰めに、あるいは励ましに来ているのではと思うと、カーレンは自然に笑っていた。
「ありがとう」
 チルチルと睨みあうのをやめたシュリはカーレンの方に向き直り肩を落とす。
「……もう城中の噂になってるわよ、あんた達」
「まあ、城中とはいきませんけど……わたくし達は特に」
「だあって、態度も様子も調子も――あんまり付き合い長くないあたしが言うのもあれだけど、まるきり別人じゃない。あんたもスピカ君も」
 カーレンは眉尻を下げ閉口する。
「……普通にしようと思っても、出来なくて……」
 何とか、それだけのことを言った。普通の状態でも睦まじい二人だったからこそ、尚更痛ましいのだ。
「姉さまはスピカ兄さまのことが好きなのよね?」
 チルチルの無邪気な問いは、それだけしか言えなかったカーレンを大いに揺さぶってしまう。
「あらチルチルさん、そういうことは、それとなく訊かなくてはいけないのですよ」
 そう言う李白は淑女の笑みを浮かべる。
「今更訊く必要もないじゃない。言わなくてもわかりきったことをさ……カーレンだってわかってる。そうでしょ」
 シュリは何てことないように同意を求めてきた。
 言葉にしなくても、当たり前のように胸の中で、いつの間にか育ってきた想いが確かにカーレンの中にある。口に出さずとも輝いている。しかしいつまでも胸の中に仕舞い込んだままでは――その存在もその対象も、消えてしまう。
 だからこそカーレンは声に出す。
「私……私、スーちゃんのことが、好き」
 それは単なる言葉だったはずだ。けれども言い終えた時、そのあまりの想いの大きさにカーレン自身動揺し、見えるわけでもないのに、その想いを隠すように、カーレンは完全に俯いていた。
「でも、でもね、スーちゃんはきっと私のことなんて……」
 あんなに冷たくされているのだ。こんなに距離が開いているのだ。
 二人を繋ぐ鍵は無い。黒い紐の絆は、もう途切れてしまった。
 ただここに、途方も無い巨大な想いがあるだけで、そしてカーレンはそれをどうすることも出来ない。
 スピカといて初めて意味のあるものを、独りだけでどうすればいいというのだろう。
「嫌い?」
 馬鹿言わないで、とシュリは鼻で笑う。カーレンの恐怖全て、さもどうでもいいことのように。
 カーレンは下唇を軟く噛む。
「……シュリちゃんには、わかんないよ」
 シュリに対し腹が立ったのか、それとも自分の弱さを恥じたのか。複雑な想いはカーレン自身も分解できない。わかんなくて結構、シュリはやはり深刻そうにせず肩を竦めた。
「単なる意見よ。だから歯に衣着せず言うけど、カーレン、今のあんたは間違ってる」
 顔を上げたカーレンの真新しい涙が、シュリ達の目に美しく見えた。目を若干細めシュリは言う。
「双助君達が、昼間男同士で同じこと喋ってたみたいでさ――双助君が言うには、運命がどうとか何とか話してたんだけど、つまるところスピカ君に勇気がないだけみたいよ」
 その涙に、少々喧嘩腰だった口調を和らげていた。
「兄さまは「めめしい」んだってオーレおじさまが言ってたわ。でも何でかしら。そもそもどういう意味なのかしら」
 言えてるわねと思わずシュリは笑ってしまうが、カーレンはそれでも笑えない。何事もなければ笑っていただろうと、カーレンはわかっていた。
 カーレンさん、と李白は優しく彼女を呼ぶ。
「問題は、それだけではないようですけれども……スピカさんはずっと、カーレンさんを待っていましたよ。火の島で、ずっと」
「ずっと?」
 子供のようにカーレンは訊き返す。
「ええ。雨に濡れても、空腹を忘れても、ずっとずっと、待っていました」
 ずっと。言葉を繰り返し、胸に手を置くカーレン。言葉が胸の泉に波紋を起こす。夜風が寒いはずのここで、不思議と暖かさが身に灯る。

 誰かに、抱きしめられたかのような暖かさ。

 そう。そうだ。あの日、北の国から南の浜辺へ還ったあの日、初めて涙を流したあの日、スピカはカーレンに何をくれた?
 生まれたばかりのような、熱い衝動。

 そのままの形を以て、抱きしめてくれた。

 ――諭すように、李白はこう言う。菩薩のような安らぐ笑みが浮かぶ。
「スピカさんはあなたのことを愛していますよ。
 わたくしはよく意見が定まらなくて困りますが――あなた方に関しては、間違いありません」
 やや強めに言い、それから、と繋げた。
「――これは根拠のない、わたくしの勝手な推量ですけれども――スピカさんは、今でも何かを待っているのだと思います」
「何か?」
 ええ、と李白は少し俯き考え込む。
「カーレンからの告白なんじゃない?」
「いえ、それではなくて……いえ、そういうものかもしれませんし……」
 じれったいわ、とチルチルはやや不満そうに長姉を見上げていた。
「――みんな」
 カーレンはようやく少しの微笑を浮かべることが出来た。
 この微笑を、今でもスピカは求めているだろうか。
「ありがとう」
 そう思いながら、最初と同じ言葉を紡いだ。その時よりも、随分と和らいだ心で。







(スーちゃんは、何を待っているんだろう)
 星月のもとからカーレンは離れ、巨蟹宮の暗闇の内、布団にくるまって考えを巡らせていた。しかし徐々に思考野を襲ってくる眠気や疲労に考えは途切れ途切れになっていった。勿論、答えなどそう簡単に出るわけもない。出たとしても、スピカが求めているものかどうかあやしい。
(シュリちゃんが言った通り、私から好きって言えばいいのかな)
 しかしカーレンには、――抱擁をくれたスピカと全く同じであるはずの、あの冷たいスピカに向かってそう告白する勇気など無いに等しかった。気軽に彼の手に触れていたことも、もはや遠い幼い頃の日のように懐かしく感じているくらいだ。
(言えない……)
 目蓋を下ろす。更に深い闇に自ら入り込む。自分がどれ程臆病だったかが、そうしている今カーレンはようやく理解した。しかし、目蓋の裏には――シュリに李白、チルチルの姿が浮かんだ。三人共が、二人の関係を強く認めている。こんなに怯えている自分を、支えている。
 カーレンはどこか、今まで感じたことのない暖かさに抱かれた。それはスピカの熱さとは違う。微笑ましい、友情の暖かさだ。その日は大人しく眠りにつくことにした。


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