スピカ



 宴の夜から幾日が過ぎた。
 玉梓の呪いが解け、オーレの呪いも解け、それに導かれるように、この関東の南国安房の冬も次第に春へと姿を変える頃である。
 シリウスが辰川家の書庫に足を運んだのは、穏やかに晴れ渡ったある日のことだった。やがて来る春は目前に迫っていると、胸を躍らせるのに十分な日差しと風が吹き遊ぶ日だった。もう誰もが新しい仕事や家族や、これからのことに気を取られ、先の戦いに想いを馳せ、偲ぶ暇もない。今はそうなるのが当然の時期なのだろう。
 書庫には陽姫がいた。沢山の書物や巻物をあちこちに広げ、膝の上にも置いて読書に没頭している。ただ黙々と読んで、息をする音も聞こえない程であったが、シリウスに気付くと驚く様子もなく、にっこり笑った。
「おかえりなさい天狼」
「お勉強ですか」
 うんと照れたように陽姫は頷く。そのまま手当たり次第、巻物を手繰ったり書をめくったりと、静かな読書に忙しい。
「昔を思い出しましたよ」
 そう彼は何気なく言う。しかしその細めた眼の端から寸での所で止まっている感慨深いものくらい、とっくに陽姫は気付いていた。その答えとして、陽姫は笑う。
「この三十年の間に、大分安房も和秦も世界も変わったのね」
 全てをご存知なのではとシリウスは問いながら近寄り、すぐ傍の長椅子に腰を下ろす。困ったように笑い陽姫は肩を竦めた。
「太陽の姫もさすがにそこまではいかないのよ」
夜に太陽が現れないようにね、と苦笑を強めた。
「大きい局面での物事には少し疎いわ」
「左様ですか。わからないことは教えて差し上げましょう」
「そうね――天狼は先生に向いているかもしれないわね」
 そう言われ、はあとシリウスは首を掻く。ふふふと陽姫はいたずら好きそうな顔をして笑ったが、何かが心中に入り込んだように急に目を鋭くさせた。
「里見の国――安房は和秦全体から見れば小さいけれど、でも、周りが無視できない程度に大きい。私を始めとして、外の国からは危険人物と見られかねない人材が多い。……少しくらいの戦でも、生き残れる国にしていかないと、いけないわね」
 シリウスから陽姫は顔を逸らす。
「そのためには、やっぱり小さなところからこつこつと詰めていかなくちゃね。教育もせめて読み書きくらいは全領民には当然必要ね……。地理を活かして商業的にも軍事的にも発展させないと……和睦を結んだからって安心できないし……」
 陽姫から出る言葉は、陽仁やシリウス達、里見の首脳部が出すべき言葉に相当している。シリウスと顔を合わせはしないが、顔をきりりとあげ、里見の未来を言葉で構築していく。太陽の姫のその積極さ、前向きさ、雄大な理想にシリウスは明るい笑みを浮かべざるを得ない。
 しかし、陽姫は急に口を閉ざした。
「姫?」
「……だから」
 彼女は右の手を己の顔に伸ばす。
「これから、これから私も陽仁も陽星も、里見を発展させていくから。明るくて、楽しくて、ちょっとくらいの辛いことなんて、すぐにどうでもよくなるくらいの国を創っていくから」
 その手はその目から零れるものを受け止める為に伸ばされたのであろう。けれども触れるのを拒むように、眼前の空気を虚しく掴むばかりだった。
「私は生き続けるから。私がここに生きている限り、この国を守っていくから。
 私は死なない、だから……」
 もう声は涙に濡れていた。
「だから……だから山の中に独りで入ったりなんかしないで」
 シリウスの目に、涙を浮かべた陽姫の顔がはっきりと映る。まばたき一つで、彼女の涙はするすると白くふくよかな頬を流れていった。シリウスの目の前で何かが弾け飛んだ、そんな気がした。
「私のいない所で、死んだりなんかしないで!」
 太陽の弱い呟きは、最後には悲鳴となり、辺りの弱い紙が震えた。
「みんな……みんな、私よりも先に、死んでいく。陽仁もオーレ達も、天狼も。
 そして私は――死なない。永久に生き続ける」
 陽姫の、玉梓にかけられた最後の呪いについては既に天狼の知るところであった。陽姫の顔に微笑は無論なく、ただ見知らぬ恐怖に弱弱しく口を開け、眉を下げ、何もわからないように戸惑い恐れている。
「そりゃあ、首を斬られたり、心臓を貫かれたりでもしたらきっと死ぬわ。
でも――私は、死なない。玉梓は嘘をついていない。彼女は最初から最後まで本音で私と対峙していたから、嘘なんかじゃない。
これが呪いとは、自分のことだからわかってる。わかっているけど――後悔なんか、していないけど、でも」
 か細い嗚咽は苦しげにシリウスの聴覚に迫った。
「寂しくて、寂しくて……」
 堤防が破裂するように、わああっと大きく声を上げ、陽姫はただ泣いた。
「みんな、みんな、死ななければいいのに!
 いなくならないで……」

 いなく、ならないで! 

 叫びが、破裂する。
 涙は大きな道筋を作り陽姫の頬を照らす。流れないようにか、首をもたげて泣く。その姿は哀れだがどこか尊くもあった。
 シリウスの目の前にいる陽姫は、太陽の姫という大きな、里見や和秦、世界全体を包むような大きな存在ではない。三十年前から変わらない、たった一人で地に足をつけ立っている少女だった。全てを受け入れるにはあまりにもろく、あまりに小さい。しかし、陽姫は太陽の存在であるために、自分が自分であるために――受け入れてしまった。シリウスが背負うべき罰――先祖が遺した罪に対する罰を。
 シリウスは返事の代わりに、涙の雨に打たれる陽姫の肩を強く、強く抱きしめた。彼が包む太陽の姫は想像以上に小さく、けれども確かに、暖かだった。


1      
プリパレトップ
novel top

inserted by FC2 system