そんな、太陽が泣いた日があった。それからまた、何事もなく幾日かが過ぎる。
 カーレンは巨蟹宮に閉じこもり、ほどけた黒い紐を見つめていた。目の間に垂らしてみる。黒い筋は視界を冷徹に、二つに裂いた。
 手づからカーレンは左足首にそれを結ぶ。紐は輪となり以前と変わらぬような円になったが――カーレンの目には、ひどくいびつに見えた。
 スピカが、離れていく。
(……私がどんなに好きでも)
 黒い紐を弄びながら、カーレンは膝に顔を埋めた。そして思う。
(私が、スーちゃんと生きる未来を選んでも)
 シュリの叱咤が偶然与えてくれた答えは、突然冷たくなった二人の関係を寒々と引き立たせる。その答えは間違いだったと皮肉られているような気がして、カーレンは唇を噛みしめた。
(スーちゃんが私を嫌ってたら、意味がないんだ……)
 口外しない想いは熱い血流になって、目頭を熱くさせる。やがて涙が光った。
 人はそれでも、情に想いに蓋をすることは出来ない。今なお溢れる想いを殺すことは出来ない。押し留めようとする意志と戦い、血の涙を流す。
 カーレンもまた、止めることは出来ない。だから涙は彼女の頬をべたべたと濡らしていくのだった。
 想いを押し殺しているのだから、口を出ることはない。二人が偶然城で出くわしても二人は互いの想いを知らないのだ。春を感じさせる少し乾いた空気は、陰鬱で張り詰めたものに変わり、時は途端に運行を遅くする。
「あ、あのね、スーちゃん」
 カーレンはその想いの戦争から一人抜け出して、笑ってスピカに声をかけてみるが、声も視線もスピカには届かず、彼はカーレンから気まずそうに目を逸らし、去っていく。
 そして、カーレンはそれを追おうとはしない。目の赤さがやや翳った彼女は、ただ立ち止まっているだけだ。


「あーあーあ、なぁにやってんだかっ」
 二人の様子を城の一室で見物していた与一は、うんざりしたようにそう言うと、ごろりと寝転んだ。
「本当にね」
 オーレも何やら書物を読みながらその場で寛いでいる。風が気持ちよく部屋に吹き込む。
「なに? 何かあったの?」
「皆さーん、殿からお饅頭を戴いたんですよ。お茶にしませんか」
 与一は双助の、この昼下がりに相応しい長閑な提案にいつもなら賛成と明るく声を上げるのに、反対に荒々しい声で信乃に答えた。
「スーの野郎が、いっつまでもうじうじうじうじして、カーレンに急に無愛想になってやがることだよ!」
「ああ……それなら城中でひそやかながらも知れ渡ってるから知ってるよ」
 少しは落ち着いてよと信乃は眉を下げ苛立つ与一と向き合った。それでも彼は斜めだった眉を下げようとしない。
「お、皆さんお揃いじゃな」
「さっきシリウスさん達からみかんを戴いたんで……与一兄さん、どうしたんです? そんなに怒った顔して、何かいけないことでもあったんでしょうか?」
 あったんだよ、と少々落ち着いた、それでもふくれっ面の与一はニコの髪をくしゃりと撫でた。くすぐったそうにニコは目を細めた。まったくよおと与一は双助から饅頭を奪いがっつきながら腰を下ろす。
「まあ……見ていてあまり気分のいいものではないだろうな」
 燃えたぎる与一を、煙管を銜えながら静観していた花火は、例の二人に対しては静かに見物を気取ろうという風に煙を吐いた。
「今までと違うのに、あの子は戸惑っているんだね」
 オーレはみかんの皮をもぎながらそう言う。彼は窓辺に座っていて、そよ風に切ったばかりの髪が靡いた。
「どういうことです?」
 どこで茶を用意したのか双助は机の上に盆を置く。器の音がまるで風鈴のように辺りに響く。
「――今まで、僕らは運命の輪の上にいた。
 勿論……珠は無くなったとはいえ、十二宮の紋章は体に残っているわけだから、今もその輪の上にいることはいるんだよ」
 そう言いオーレは自らの左胸に手を置き、与一を見やる。オーレのその言葉通り、与一の右頬にも未だその紋章は残っていた。す、と与一は右頬を撫でる。
「でも、今までよりずっとその意識は薄くなってると僕は思う。
 戦いは終わった――というか、呪いは解けたんだもの」
 先日スピカにそう言われ、今そう言う自分がいることにオーレはどこか可笑しく思い、人知れず微笑した。
「そう、呪いは解けたんだぜ」
 与一は憤慨を抑え、ぽつりと言う。それを聞き太望は何かを憐れむように眉を下げた。
「――『運命』という針金みたいな、あの二人を繋ぐ絆がないってわけ」
 それを聞き一同は眉を顰めた。オーレは胸中の苦々しさに肩を竦め曖昧に笑うのみ。
 ――もう誰もがわかりきっていることなのだ。二人が好き合う、特別同士であることくらい。今の状況こそ、何をふざけているのだ、と誰もが腹を立てるべきところなのである。
 けれども当人同士の問題に、あまり口を挟み過ぎるのも、乱し過ぎることもご法度であろう。好転する場合もあるだろうが、せっかく上手く行っていたものが崩れる可能性も同時に存在する。
 つまるところ、一同は静観しか出来ない。それをわかっているからこそ、与一もあれだけ憤慨するのだろう。
 何とまあ歯がゆいことか。ああ、苦々しいったらありゃしないね、などと呆れた笑いも浮かべながらオーレは尚も続ける。
「――スピカ君はスピカ君なりに、それに恐怖を感じているのさ。……今までどうあっても、運命の輪は巡っては巡っては、二人を向かい合わせた。必ずね」
 オーレは半眼になって自分が立ちあってきた二人の場面に想いを馳せる。鮮やかによみがえるのは、火の島での抱擁である。
「それが、無いんだ。――二人の関係を必ず保障してくれるものはもう、無い。だから、「好き」だと思いきって言えない、誓えない」
 場を満たすのは奇妙な沈黙。はあ、とオーレは息をつく。
「あくまで僕の意見だけどね、まあ、そういうわけ」
 ばっかじゃん、とやはり与一が言う。
「必ず保障してくれるもの、なんて……あるわけねえさ。どんな二人でも」
 与一らしくない溜息で言葉を閉じた。みかんの皮をぶちぶち千切っては模様を作っていた信乃はそれに反応し顔を上げる。
「でも、それに――『必ず保障してくれるもの』に準ずるものがあると思う」
「何だよ信乃」

「――『好きという気持ち』」

 けろりと彼は言った。
 ふうっと花火が信乃に向って肺に溜めた煙を吐いたのは、その言葉を把握するに足る程度の間があってからである。
「けほっ、こほっ……もう、何するのさ」
「ふん……言うようになったな、信乃も」
 花依姫と何かあったのかと、花火は客観的に見ても恐ろしい目つきで信乃を睨んでくる。やはり花火はどこか彼女を妹に近しいものとしても見ているらしい。二人とも顔がそっくりなため、無理もないだろう。何でもないよっと言いつつも、信乃は顔が赤い。大人達の会話に必死でついていこうとするニコもまた顔がほのかに赤い。
「まあ、スピカ君自身のかなり個人的な理由もあるんだけどね」
「まさか本当に女だったとか」
 あははと誰もが笑う。真相にただ一人辿りついているらしいオーレは笑顔をまま続けた。
「本当につまんない執着だよ。聞いたらみんな、呆れるよ」
 だけどそれが、二人のこれまでとこれからを繋ぐ重要なものであることを、彼は黙っていた。
「……わしは」
 悲しげな顔と笑顔が混じり合い、太望は複雑な表情で話し始めた。
「わしは、あの二人が好きじゃし……上手くいってくれるといいんじゃが」
「太望さんは、スピカさんに会った最初の人ですからね」
 双助に、太望は軽く目をやり頷く。
「しかしな、こういうことは、わしらの希望でどうにかなることじゃないしの。二人の気持ち次第じゃ」
 二人が嫌い合っているとは、思えんけどなと太望は苦笑し、オーレもやれやれと口の端を上げた。
「お互い、保護者ってことで」
 そうじゃのと太望は頷いた。
「初めて会った頃に比べると……」
 そして窓から覗く風景が彼の目に映る。かつて太望は、この窓から見える自然に似た場所でスピカと出逢った。――懐かしいと、彼の目は語っていた。
「……あの子はよく笑うようになった。すごく優しく、穏やかにの」
 見る者全てを射殺すような目は、今のスピカには全くなく、抜け切ったと言ってもよかった。たまに見え隠れする微笑は、かつてのスピカには無かったものだ。
「そうだね……きっとカーレン君のおかげだ」
 な、と与一は楽しそうにオーレの言葉を強めた。
「思い切って素直になればいいんですけど。シュリさんに、何か似ています」
「お、双助、お前シュリと何かあったのか」
 あったの? と与一に加え信乃まで追究してきたが双助はただ首を傾げ誤魔化す。
「――今、外に誰かいなかったか」
 花火が鋭い目で木製の襖を睨むが、特に物音もない。オーレはぼんやり同じ方向を見ている。
 スピカが襖の向こうにいたのだろう、とオーレは思った。肩を竦め、彼はみかんを食し饅頭を頬張った。


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