私は気がつくと、人でごった返す街中にいた。
 横断歩道の青信号のメロディ。ノイズと化してしまった人たちの喋り声や足音、CMやニュースが流れる街の大きなテレビ。汚い道路を行き交う人々の間を鳩やカラスがちょこちょこと縫っていく。どうやら私は待ち合わせの定番スポットらしき場所にいるらしい。当然見覚えはなかった。そういえば昨日は金曜日だった。今日は休日なんだ。
 たくさんの人が私を通り過ぎていく。男も女も、若い人も老いた人も、時には動物も。まだ初夏だというのに、むせかえる熱気が当たり前のように空気に流れていた。少し臭い。
 何の感慨もなく、私はぼうっとつっ立っている。すると空間は前方だけ街の様子を映して明るくなり、周りはぐんと暗くなった。隣にアサイくんがいた。
 私は彼の方を向く。彼は最初に見たような、あまりやる気の無さそうな顔をしてのんびりとしていた。
「どうしたのさ、元気がないね」
 その通りだった。俯いて、ただ無言の私。でも何か言わなくては、この場も私も、整理できない。
「何がしたいのか、わからなくなっちゃって」
 降り始めの雨粒のようにぽつり、と私は呟いた。
「何がしたいって……恋だろ? 君の目的は」
 さも当然のようにアサイくんは言った。顔を上げてみると彼は、しかしその顔を変えてはいなかった。
 涼しげな顔。何物にもとらわれないような彼。私のことなんて、最初から本当はどうでもいいことのようだった。――でも私は最初のように憤慨を感じられない。
 いや、感じてはいるけど微々たるもので、むしろ今の私を悩ますものが大き過ぎて、覆い隠してしまうのだ。
 恋がしたいのは本当だけど、だけど私は。
「落ち込んでいても、その唯一の目的を思い出して、頑張っていこうはりきっていこう! ってなるんだよ君は。そういう子だよ。……ずっと見ていたからね。ああ、勿論君だけじゃなくいろんな地縛霊の皆さんを。
 その時、偶然出逢った人に思いがけない程超弩級の一目惚れをして恋をして見事生き返ってその人といざハッピーエンド、っていう展開が待っているところなんじゃないの、ここは」
 この間も言ったじゃない、と彼には珍しく少しおどけた感じで言った。それは余りに、出来すぎた展開だった。私にもわかる。
「だって……私がここで恋をしたところで、その意味を伝えたい人は、もう、いないんだよ」
 そう言ってそんなアサイくんから目を逸らした。
 アサイくんは私の過去や、恋に執着していることを知っていたのなら、何故最初から全部教えてくれなかったんだろう。
 それは、全部、意味のないことだったからだろう。私はその人がいないと恋をする理由がないのだ。それは、彼なりの優しさだったのかもしれない。
「それに……恋って、そんなに簡単なものじゃないと思う」
 人を想うことは、たった一人を愛することは、それこそ、今の私じゃないけど、死人が生き返ってしまう程のエネルギーが必要になるんじゃないか。告白という行為がとても力を必要とするのと同じだ。
 そんな風に、錯覚する。勿論、これは私の勝手な思い込みだ。一笑に付されるだろう。
 とにかく、簡単なものじゃない。……私みたいな幽霊が出来るものじゃない。
 でも――かつて告白した人のことを想っていたからこそ、私はこうやって三十年も存在を消さずに幽霊であり続けていたのもまた、事実だった。
 その人のことを、最初は思い出せなかったし、今だって、どんな名前だったか、どんな姿だったか、まるで思い出せないけれど、それはそれで十分素晴らしい恋じゃないか。

 それで私は、満たされているはずなのに。

「――この一週間で随分悟ったね」
 私はそんなに言葉を伝えていないのにそんな風に言う。ふう、とアサイくんは何故かため息をついた。顔は、どうしてか少し困ったものになっていた。
 まあそうかもしれない。せっかく生き返るチャンスを与えたのに、当人のやる気が全く無くなったのだから。最初はあんなにみっともなくわめきちらしていたというのに。私もまた俯いた。
 いつのまにか街の様子の明かりはなくなっていて、アサイくんだけがぼんやり光っていた。私が最初にいた、元の暗闇。私の姿も見えない。そうじゃなくても、目を閉じれば、アサイくんは見えなくなってここは真っ暗になる。――だけど、ここにきてやっと、本当の本当に、真っ暗だと感じる。

 何の取り柄もない。希望もない。救いすらない。
 私は本当に幽霊だ。
 それなのに、私は呟く。
 誰に向けてでもない言葉。それでも答えを求めている言葉。

「……恋をするってどういうことなのかな。その人は……もうすっかりわかってて、大人になってるのかな」
 きっと私が死んだことすらももう忘れているだろう。物語に出てくるような幸せな家庭を作っているかもしれない。私にはそれがすごく寂しかった。

 私だけが、世界に取り残されているような気がした。

「ねえ」
 突然、何も言わなかったアサイくんが口を開いた。
「僕は少し、君に言いたいことがある。――ほとんど、本で読んだ受け売りのようになってしまうけど」
 何だろうと思って顔を上げた。そこには――やる気のない顔でも、困ったような顔でも、儚い顔でも、悲しげな顔でも、にっこり笑った顔でもなく、真剣な顔をして私と向き合うアサイくんがいた。
 その言葉の通り、一心に研ぎ澄まされた剣のようだった。
「恋っていうものは、「する」もんじゃないんだよ」
 さっきの私の問いに対する、答えのようだ。
「気がついたら、もう「している」んだよ。
 明確なスタートなんて、誰もわからないんだ。
 でも言葉や文脈では、恋を「する」としか言えない場合も多々ある。それは仕方ない。だけど、いやだからこそ人は「恋をする」をたびたび言い換えて、こう言うこともあるんだ。

 ――恋に堕ちる」

 呪文のように、彼は言う。

「恋に、おちる」
「そう」

 涼しく柔らかい風のようにアサイくんは笑った。
 それから私の頭を撫でた。あまりに急な行動だった。お前は最初から何もわかっていなかったのだ、とはたかれるんじゃないかと思ってぎゅっと目を瞑っていたら違っていたので、胸を撫で下ろしつつもその意外な行動に目を白黒させてしまう。
「君も、例の彼を見た時に、恋に堕ちていたんだよ。一目惚れってそういうことだからね。
 恋は、しようとおもってするもんじゃない。そんなところから恋に堕ちてしまうことがあるんだ。
 今言ったようなことを、そのまま、彼に伝えればよかった。けれど、それを理解して相手に伝えるには、君はまだ、少し若すぎた」
 彼は笑みを続けていた。でもその裏側には確かに先程見せた真剣さがあるように見えた。
「それとね、人を好きになるっていうのは、いくつになってもね、変わらないことだよ。
 うら若き乙女の頃を過ぎて、おばさんになっても、おばあさんになっていても。
 恋に堕ちるのに、年なんて関係、ないんだよ。
 君がたとえ四十過ぎのおばさんになって現れても――きっとあの彼は、答えを待っててくれたと思う。付き合おうとしていたと思う。……まあさすがに、ちょっと願望入っているけどね」
 私はただ黙って苦笑した彼を見ていた。その言葉を何度も、何度も心中で繰り返す。

 恋はしようと思って出来るものじゃない。いつの間にか、恋が始まっている。恋に堕ちている。そうなるのに、年なんて関係ない。

 そしてきっとその人は、答えを待っていてくれた。
 その言葉が嘘だとしても、私には安心が広がる。救われた気分になる。

(……安心? 何だろう、この感じ)
 私の中でなにかがするすると解けていく。
 私が知りたかったこと。恋がどんなものか。恋愛とは何なのか。
 いつかは、教えることは出来ないと言ったのに。
 答えの全てじゃないけれど、答えの一つが得られたから? 私の考えと、アサイくんの考えが鍵となって、私を密かに縛っていたもの――それは執着と言えるものかもしれない――その錠を解いてくれる。

 とても、楽になる。

「……なんか、納得しちゃった」
「そうだろう。恋とはどんなものか知ること。それが君の本当の執着、目的だったから。
 ……それを解くのが、僕等の役目だ」
「それは私が、あの、その「例の人」に、意味を伝えたかったから?」
「そう。恋がしたい、なんていうのは実際、目的のための目的みたいなところだったからね」
 生前の君とまるきり同じ方法をとったんだよ、と悪びれるところもなくそう言ってのけた。なんだ、と私も何故か納得してしまった。二つの納得が、どんどん体に沁みてくる気がした。
「提案なんだけど、ここは素直に死んで……もう一度、生まれてきたらどうかな。そしてまた、恋に堕ちてみたらどうかな。その彼に一目惚れしたみたいにね」
 ああ、もう死んでるけど、と彼は無邪気に笑って見せた。最初に私に言った言葉。その時のような悲愴感を、今は抱かずにいられた。寂しいことなのだと思う。だけどどこか、強いことなのだとも思える。
「……アサイくん」
「ん?」
「ありがとう。……何だかすっきりした」
 清々しい気持ちで、私は伝えた。
 ――この一週間や、ここで体験したことは、みんなみんな、忘れるだろう。
 宝子じゃない、新しい人間になるんだから当然だ。もしかしたら女じゃないかもしれないし、人間じゃないかもしれない。動物になっていてもおかしくない。
 でももし、人間になるなら、そして出来れば女に生まれてくるなら。恋について、人を好きになることについて、自分で、気付けたなら。
 そしてまた、例の彼のようなことを言ってくる人に出逢ったら、今度こそちゃんと、教えてあげようと思う。

 それがたとえ、恋に何度も何度も敗れた後の、負け犬の遠吠えでしか無かったとしても。

「まあ、でも……僕は僕の見解でなく、君の言葉で、もっと深く納得してみたかったなあ」
「え? どうして?」
 私は何気なく訊いたつもりだった。アサイくんだって簡単に返してくれると思っていた。けれどアサイくんは口を閉じたままだった。
 ややあって、だって、と力の無い声を発した。

「だって……僕だからさ」

 何が僕だから、なのかわからない。
けれど今までの話の中で、その言葉が当てはまる人が、たった一人だけいる。
 そう――正体不明の、「例の彼」がいた。
 そしてアサイくんもまた、正体不明の男子だった。
 その時、私に何かが流れ込んでくる。周りの白さよりも眩しい光。脳裏に宿る古ぼけたフィルムがかたかたと回転して、時の流れに零した記憶を懐かしい色合いで、だけどどこか鮮明に再現していく。
 桜の木の下。まだ青空が澄み渡る放課後。人気のないところで、私は誰かに告白した。
 いや、誰かじゃない。その誰かは、今、一番近くにいる人物と似ている。
 ぼんやりした目。やる気が無さそうな雰囲気。だけど私は、彼に一目惚れをした。

 恋をした。――恋に堕ちたんだ。

「君が告白した相手は、僕だからさ」

 流れ込んだ眩しい白は、物理的なものでもあったらしい。
 そこに着物姿の少年の彼はおらず、二十代後半といった男性が現れていた。
 でも全体的な白っぽさ、ぼんやりした目、やる気はなさそうだけど、私をどこか優しく見守ってくれる眼差しは、どう考えてもアサイくんそのものだった。
 彼は何か言おうとする私を手で制して、語り始めた。

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