をとめの頃を過ぎても   2010年改訂版



 うららかな陽光。少し埃っぽい空気の中、道路をはしゃぐように駆ける。
 学校までの坂道にはたくさんの桜が並んでいる。まるで雨のように桜の花びらが降りしきる中、私は目をらんらんと輝かせながら走った。
 小鳥達のさえずり。穏やかで暖かな風。見上げれば桜の天蓋。目指す先にあるのは私の学校。
 少し立ち止まって、ゆっくり深呼吸。空気も桜色という感じ。ああ、春だなあ。

 今朝は、特別気持ちいい。
 こんな日はきっと、素晴らしい出逢いのある一日になる!
 そう、私は今日、恋をする。絶対に絶対に、これ以上ないほどのとびきりの恋をする!

 運命がそう約束している。私にはわかる。きっと今日は、素敵な出逢いが待っている。背伸びをして私は、桜の枝の隙間から見え隠れする太陽に大きく頷いた。


「残念ながら」


 ――どこからか、声が聞こえた。利発そうな、男の人の澄んだ声。疑問に思う間もなく、突如として世界が真っ暗闇に包まれた。
 こと切れたように暗くなったので停電? と思ったけれど、ここは屋外だ。それなのに、太陽も桜も空も道路も何もかもが見えなくなった。見えないのは自然物ばかりじゃない。私の手も足もローファーも真新しい制服のスカートも鞄も髪の毛の先も何もかも、見えなくなっていた。
 まるで私がいなくなってしまったみたいに。

「あなた、もう死んでますよ」

 さっきと同じ声がそう言う。世界が消えたことも、私が見えなくなったことも、さほど重要ではないように淡々と。
「え……?」
 もう死んでいる? 私が?
 手を目の前に持ってきても何も見えない。そもそも私に目はある? 顔はある?
 死んでるって、そんな、まさか。声にも出来ない。漏れるのはただ、意味をなさない感情の塊だけ。
「ええ……?」
 えええ、とその叫びが虚空へ消え収まると同時に、前方、ぱっとその場だけ電気がついたように明るくなる。
 そこにいたのは私と同い年くらいの男の子だった。全体的に体の色素が薄く、着ている着物も何の柄もない、素麺みたいにつるつるした白色だった。彼はじっと私を見ていた。ぼんやりした目。
「ええ、その通り。あなたもう、死んでるんですって」
 真っ白な彼は素っ気なく同じ言葉を重ねる。
 言葉は、聞こえている。どういう意味かもわかる。だけど、「理解」するには、あんまりにも突然過ぎる。荒唐無稽過ぎて、むしろ笑えるくらいだった。だけどいざ笑おうとしても――そんなの出来るわけがない。
「な、何で私が死んじゃってるの?」
 そう問うことが精一杯だった。
「ついさっきまで、いい気持ちで登校してたのに」
 しおしおと力が抜けていく。でも負けてられない。奮起するように声を上げた。
「最近入学したばっかりの花の女子高生なのよ! 今日なんて特別いい日だって思えたから、今日はきっととびきりの恋をするんじゃないかなあって、それはもう決まっていることのように、そう思えたのに!」
 目の前の少年は何故か悲しそうに私を見つめた。ああ、彼はきっと憐れんでいる。同情や憐憫が与えられることがこんなに苦しくて、腹立たしいことだったなんて。かあっと頭に血が上っていく感じがする。
「ねえ、何か答えてよ!」
 彼はしかし、まじまじと私を見るだけだった。こんな理不尽な状況を、私は何処かで見たことがある。考える間もなく、すぐにぴんときた。
「あ……そうか、これ夢ね! なーんだ、夢ってわかれば、まぶたを上げよう上げようって努力すれば――」
「一人で盛り上がってて悪いけど、君本当に死んでるから」
 うるさいなあ、とでも漏らしたげな彼は全体的にやる気が感じられない。さっそく「あなた」呼びから「君」と馴れ馴れしくもなっている。……白いのはその所為だろうか。赤かったら私の話を熱心に聞いてくれたかもしれない。青だったら私のことを想って泣いてくれたかもしれない。
 ううん、今気にすることはそれじゃない。私の体は見えないけれど、どん、と大きく地団駄を踏んだ。
「私の話を聞いてよ! どこが死んでるって言うの! ぴんぴんしてるじゃない!」
 私の目には見えないけど、という言葉は胸に押しこむ。
「……昨日の記憶はあるかい?」
 訊かれたのは意外なことだった。昨日の記憶くらいあるに決まってる。適当に喋って、早くここから抜け出してしまおう。どうせ夢に違いないんだから。
「昨日……昨日って」
 それなのに、私の頭には何も浮かばない。段々、言い訳を探すように脳みその中を自分が走る。つまり、私に昨日の記憶はないも同然だった。
 ないなんて、そんな。冷や汗が流れる。だけど必死にでっち上げ、捏造しようとしている自分がいる。そう、適当に喋ればいいんだけど、どうしてか、彼のやる気がなさそうで何も見てないかのような瞳は、見かけに反して何でも見えていそうな気がした。
 私の拙い嘘を絶対に見破る。そう思った途端、喋る気が萎んでいく。
「君のお父さんとお母さんの名前は? きょうだいはいる? 出身は何処? どんな学校に入学した?」
 適当に言おうとした言葉が吹き飛ぶ。彼に従うしかないんだとわかっていた。
 私の名前は、思い出せる。ホウコ。漢字で書くと宝子。お父さんとお母さんはなかなか子供が出来なかったから、二人にとって私はまさしく宝物なのだ――と、そんな感動的な名前の由来も思い出せるのに、二人の名前が出てこない。
 顔も、姿も、それ以外に私の家の周りとか、兄弟とか姉妹とか、幼馴染とか、私の通っていた小学校や遊んだ公園とか、そういうものも全部、頭から軒並みなくなっていた。まるでどこかで、盛大に落し物をしてきたみたいに、空っぽだった。
「出てこないでしょ。勿論死因も思い出せないだろうね。
 君は、ただ青春に、恋に生きたいという強い願望でこの世に――とある学校への通学路にとどまっているだけの、至極暢気で無害な地縛霊なんだ」
 また彼は、どこか悲しそうに言う。
 全部嘘だと、そう言ってもらいたくて、私は見えない拳をぎゅっと握り締めた。
「そんなの、嘘。……私は」
 そう。今日太陽や桜に誓ったように、私には夢があった。
 彼が言うところの、恋に生きたいという強い願望。――どうしてそれを願っているかは、わからないけれど。それが今、叫びとなって溢れだす。
「これから、恋をして、悩んで、物語みたいなデートして、ほかにもいっぱいいろんなことして――とにかく私はまだ十六歳にもなってないただの女子高生だもの! まだまだ楽しいこと、いっぱいこれから経験していく年頃なんだもの!」
「ああ、言い忘れてた」
 私の渾身の願いなんて風の音以下だと言わんばかりだった。余りのことにわなわなと怒りとほんの少しの恥ずかしさにに震える私を横目に、彼は何か言おうとしている。
 少し憐れんだ目をしながら、彼は微笑むようにこう告げる。

「君ね、死んでから三十年経ってるんだ。だからたとえ享年十五歳でも、数えればもう――四十五歳」

 頭の中に大きく数字が浮かび上がる。思わず、声に出す。よんじゅうごさい。力の抜けた言葉。最後の音はほとんど息以下だった。
 体に満ち満ちている力を確かに感じられるのに。もうこの肉体は無い。あってももう十五じゃない?
「そんな……四十五なんて、もう、若いなんて」
「そうだね、花の女子高生なんて聞いて呆れるよね。ああ、あとそれから現実の季節、とっくに春は終わってるから」
 彼は嘲るような失笑をした。――もう私は何も言えなかった。これは夢だとどんなに必死に訴えても、暗闇は晴れない。
 涙が零れ落ちる感覚が、とても寂しい。そして、とても愛おしい。だけどもう、それは現実には「無い」感覚。その現実すら私にはない。今こうして色々と感じられるのは、一時しのぎのまやかしに過ぎないのだろう。
 そういえば、何だか手先の感覚もひどくあやふやになっている。もともと見えてはいなかったけれど、ついに自分の意識から外れていくのだ。それでやっと解ってくる。
 私はもう、とっくの昔に死んでいた、なんて。
 向こう側にいる彼は儚い表情を見せた。仕切り直そうとしてか、頭を数回掻く。
「紹介が遅れたけど、僕は――そうだね、死神じゃあないけど、地縛霊や浮遊霊を取り締まる役目を持つ特別な幽霊、とでも言っておく。名前はアサイ」
 彼の自己紹介を無視して、私は一方的に落ち込んでいた。目の前が真っ暗になるって、本当だったんだ。だから、何も見えなくなった。私はため息をつく。
 まだ夢だと思っている、ぐずぐずとした自分がどこかにいる。覚めればこれは悪夢で終わる。だけど夢じゃなくて、私がここで終わったら――私は本当になくなってしまう。でもそれでもいいかもしれない。どっちにしろ終わるんだから。
 ……それにしても、三十年も恋を夢見てきたなんて、本当に浅ましい。死んでいるんだから意識出来なくて当たり前だけど、それでも、生きていたら四十五。どう贔屓目に見てもおばさんな女が恋だの青春だのなんて聞いて呆れる。
 それにしてもなんで私は――恋にそんなに強く憧れていたんだろう?

(どうして……?)

 確かに、女の子なら誰だって漫画や映画のようなラブストーリーに憧れる。素敵な先輩や同級生、頼れる友達やちょっと憎たらしいライバルが欲しいって思ったりするものだと思う。――実際私も少し憧れがある。
 でも、どうして私は、幽霊になってまでそれにしがみついていたんだろう。それほど強い憧れというわけでもないのに。
 どうせなら――誰か好きな人のことを想っていた方が、まだロマンチックなのに。
「ちょっと、返事くらいしてよ。そんなに落ち込まないで。君をそのままの姿で生き返らせようと僕は来たんだから」
「生き返るなんてそんな……え?」
 その人の――アサイくんの言葉を心中で繰り返した。
 生き返らせる。つまり死ななかったことになる?
 死んでから時間が経ち過ぎているけど、もう一度やり直せると聞いたら私は、さっき浮かんだ疑問がどうでもよくなってしまった。消えかけていた手先の感覚が、痺れが取れるように戻ってくる。恋の方向に、生きるベクトルが伸びていく。それを気付いているのかアサイくんは呆れた風に笑った。
「本当? 本当に本当? 私、生き返れるの?」
「多分」
「多分でもいい! 生き返って好きな人と一緒にいられたりする? 漫画みたいな高校生活を、今一度送れたりするの?」
「明るいなあ……。君、本当にずっと変わっていないんだね」
 首を掻く彼の言葉がどこか引っかかったけど、アサイくんは続ける。
「まあ、無害なのにさすがに三十年も放置してさようならというのはどうかってね。……ちょっと憐れんでくれたのさ」
「……誰が?」
「神様とかそういうのでいいんじゃないかな」
 いい加減な彼の言葉に戸惑いもしたが、私は感激に震えて、ありがとう神様! と言いながら真っ暗闇の天に抱擁するように腕を広げた。
「ただし条件があるよ。正直厳し過ぎると思うけど」
「大丈夫! どんな厳しい条件でも絶対乗り越る!」
 数分前とは全く違う私に、誰が驚いているって、きっと私自身が一番驚いている。あんなに落ち込んでいたのに、今はこんなに張り切っている。
絶望からこそ、希望が生まれる、ピンチはチャンスってこういうことなんだ。
 さっきふと浮かんだ疑問だって、もう一度生きて、恋をすることに比べれば些細なこと。むしろそうする過程が解決してしまうだろう。
 アサイくんはちょっと困った感じに笑う。そうするが最後、視界はすうっと白くなっていった。

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