朝になってみても箱はやはり喋っていた。どうやら私の聞き間違いや幻聴ではないらしい。
「前から、おはようとかいってらっしゃいとか、言いたかったの。
 お仕事いってらっしゃい!」
 箱に見送られるというのは何とも奇妙だった。いってきますと返せるほど私の神経は柔軟に出来ていなかった。

 勿論こんなことは職場の人間にも話せるわけがない。私はあるスーパーマーケットで働くフリーターだが、そういえばもう七夕の飾り付け用品や七夕仕様のお菓子といったものが陳列される頃で、入口の方では大きな笹を飾っており、短冊をあちこちに下げて七夕の到来をお客に伝えていた。
 開店準備をしながら、幼き日の七夕に想いを馳せる。色とりどりの折り紙で飾り付けしたり、文房具屋に売っていた大きな飾りをつけたり、短冊に願いを書いたりした。
 願いは叶うと本気で信じていたし、誰だって多分、今もなおそう思っている。雨が降って織姫と彦星が出会えなくても、だ。

(あの箱が織姫なら、じゃあずっと空に織姫はいなかったってこと?)

 正確に言うともっとややこしいと言っていた。あの箱の織姫は織姫じゃないということなのだろうか。よくわからない。
 それについて悶々としたり、今までの七夕のことを思い出していて仕事をしていたら、上がりの時間になっていた。


 こんな時期にあの箱を買ってしまったのが因縁となったのだ。私はあの箱の言うことに耳を傾けることにした。
 部屋に帰ってくると、ただいまとも言ってないのに、おかえりなさいと彼女――箱の中の織姫が言った。
「ねえ、まあまあ織姫ってどういうこと」
 まだ晩酌という時間には早いけれど、缶チューハイを開けながら尋ねた。
「私と話してくれるの?」
「声をかけてきたのはそっちでしょ?」
 しばらく間を置いて、ありがとう、と織姫は言う。箱に表情はない。けれどきっとこんな顔で言っているんだろうなという想像は出来た。
 それはまだ少女の面影を残している。随分可愛らしい女の子だなあ、一応人妻なのに、と想像だから平気で私は文句をつける。
「私も上手く説明できないし、そもそも説明出来るものじゃないのかもしれないけど……。
 私は織姫であるけど小さな織姫なのね」
「そりゃあ、こんな箱に入ってるもんね」
 うう、と苦笑するように唸る。そういうわけだからじゃないのよ、と続けた。
「天に織姫はちゃんといるわ。むしろ、沢山いるといってもいい。
 織姫は一つだけど、そこには沢山の織姫が集まっているの。彦星も同じ。沢山の中から一つが欠けたとしても、一応織姫は存在している」
「なんだかいろいろ矛盾してる。それにややこしい」
「そういうものなんだから仕方ないわ。言ったでしょ、私にだって上手く説明できないって。
 この説明は他の織姫が聞いたら間違ってるって言われるだろうし、私が他の織姫の説明を聞いたら、それは間違っているって言うに違いないわ。
 ともかく、私はその沢山のうちの一つなの」
 ごくりとチューハイを飲む。お酒の力で固い頭を何とかほぐせないものかと思っていた。
「まあ難しいことは私もわからないけど、とにかく抽象的ね。
 面倒くさいから、ともかくあなたは織姫という認識で接するわ」
「そうしてくれると私も助かるわ、ありがとう」
 それから私は簡単なサラダを作って食べた。お腹は空かないかと訊いたが彼女は大丈夫と答えた。箱である彼女にどう食べさせればいいのかも謎だったからいいが、一人で食べるは気が引けた。けれども仕方がない。
「本当はもっといろいろ話をしたいんだけど、もう寝るわ。おやすみなさい」
「……おやすみ」
 昨日は言えなかったそれを、今日は言えた。軽い酔いがそれを助けてくれたんだろうけれど、それだけではない気がした。小箱の中で少女のような織姫が人形みたく身を縮めて眠っているところを想像した。
 外はまた雨が降ってきて、窓越しの雨音はまるで川の音のように聞えた。天の川はどんな音でどんな煌めきで流れているのだろう。


 私はそれから何度か彼女と話をした。日中は仕事に行っているから、専ら晩酌の相手のようなものだった。誰かと話しながら夜を過ごすのは本当に久しぶりだった。
「どうしてこんな小さな箱に入っちゃったわけ?」
「うーん、これも説明が難しいけど、簡単に言えばよくある事故ね」
「よくあるの。問題あり過ぎじゃない? 天の川」
「何かのはずみで、下界に落ちてしまうことがあるのよ」
 私の突っ込みには答えず、織姫はさらりと解説に移る。
「勿論私だけではなく、他の織姫や彦星も。箱に限らないけど何か……たとえば引き出しのついたものとか、本とか、そういうものにひょいっと入ってしまうの。
 天へ戻る為には七夕にそれを開いてもらわないといけないの。七夕の夜ね。星が見え始めてから。その時間じゃないと道がないの。でも自分で開けるわけがないから、人間に助けてもらって、開けてもらうってことになるわ」
「……ということはこういう状況にいる織姫や彦星はあなただけじゃないってことか」
 そうね、と何かを考えるような物言いで答えた。
「あなたの彦星は大丈夫なの?」
「ええ、多分。私のことをそれはそれは心配してると思うけど」
「ふうん」
 身内でもない異性の誰かに心配されることは、私の人生ではついぞないものだ。そんな相槌しか打てない。
 その日はそれで会話が終わった。また別の日は別の質問をした。
「なんであなたたちは仕事を怠けるようになっちゃったの?
 これ、ずっと昔から不思議だったんだけど」
「それもまた、説明が難しいわね」
 どんなことを聞いてもこの箱は説明が難しいと言うに違いない。段々そう思えてきた。
「別に怠けていたわけじゃないのよ。
 でも、なんていうか……私はあの人といると、一つの絵のようになってしまうの」
「絵?」
 そう、と答えて、しばらくまるで瞑想でもしているかのような静かな間を置いた。
「欠けているものは何一つなく、完全な世界が完成してしまったような、何をする必要もなく、逆に何かしてしまったら全てが台無しになるような、そういう気分になるの。
 ある意味私達は一つになっていた。だから、何もしなくなってしまったのよ。
 これもまた、他の織姫だとどういうかわからないけどね」
 相変わらずよくわからない説明だった。ぐいとお酒を流しこむ。今日はビールだった。
「そういえば、あなたは誰か好きな人や恋人はいないの?」
 危うくむせるところだった。冷や冷やしながら、冷たいビールをごくりと嚥下した。
「あいにく、いません。
 それどころか、私にとってあなた達恋人同士っていうのは妬む対象だわ。
 それも代表的なね。織姫と彦星なんて、日本中誰もが知ってるであろうカップルですし」
 まあ怖いと箱はおどけた。現に私にはパートナーがいなければ縁もないのだから仕方がない。けれど、それでこの箱とその恋人を恨むのはお門違いだと言うことも十分わかっている。
 それでも、身内でも何でもない、自分の存在をただ想ってくれる誰かの存在が羨ましかった。そういう誰かがいる人を、私は羨んだ。

 そんな私が何故この箱を手に入れてしまったんだろう。

「大丈夫よ。あなたはまだまだ若いんだし、これから先どうなるかわからないわ」
「わからないんなら一生独りかもしれないじゃない」
「可能性としてはね。でもそうじゃないかもしれないわ。あなた、少し意地悪ね」
「意地悪だから、独りなんですよ」
 ビールを飲み干すと急に眠気が襲ってきた。欠伸を一つする。
「のろけ話はしないでよね。捨てちゃうわよ」
「あらあら怖い怖い。わかったわ。
 本当はいっぱい、あの人やあの人との思い出についてお話ししたかったんだけど。それじゃあ、おやすみなさい」
 おやすみなさい、私はそう返す。もうその頃には、眠気の所為でもなく酔いの所為でもなく、普通にそう返せるとわかりきっていた。



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