箱から声が聞えたのは買ってそろそろ一週間が経つ頃だった。
 いよいよ梅雨らしい雨が地面を打ち始めていて、その日も騒がしく降っていた。雨が降ってもちっとも涼しくならない。私は扇風機を出し始めて、それを稼働しながら本を読んでいた。
 だから、最初は雨音と扇風機の音が入り混じって聞える何かかと思った。けれど、どう考えても優しく、繊細な印象で、キーの高い女性の声はその音から空耳出来るものではない。全身を強張らせながら、耳を澄ました。
 本を読むフリなど出来ないほどそれは私の耳元近くで何かを言っているのだ。

「あの、もしもし? 聞えてますか? もしもし」

 電話のように、「彼女」は言う。聞えてますよね? とこちらの状況をわかったかのようにして訊いてくるので、体を固める緊張はやがて恐怖になっていった。
 この部屋に誰かいるのだろうか? ベッドの下に? キッチンに? だけど、声は距離を感じさせない。それに、とても小さい。
 声の方に振りかえった時、それは私の視界に真先に飛び込んできた。本棚である。
 中心には、そこを支配しているかのようにあの藍色の小箱がちょこんと鎮座していて、こちらを見ている気がした。
「ああよかった! 気付いてくれたのね」
 箱はそのまま飛び跳ねてもおかしくないくらいの嬉しそうな声を上げた。だが箱は動かない。代わりに私の方がひゃっと声を上げ、本を放り出してベッドに倒れてしまった。
「驚かせるつもりはなかったの。ごめんなさい」
 私はとにかく無視を決め込むことにした。機材の入りそうな大きな箱ならともかく、こんな小さな箱から声が聞こえるなんて、ありえないじゃないか。そういえば雨の所為かなんだか知らないけれど頭が痛い。尚更痛くなってきたので、ここは寝た方がいいのだろう。幻聴だなんて疲れている証拠でもある。
 私は至って冷静に電気を消して、タオルケットにくるまった。
「あの、もしもし? もしもーし」
 夢の中までは入りこんでくるなと祈りながら、何か怖いものを見ないようにぎゅっと目を瞑っていた。
 けれど何度寝返りをうっても一向に眠りの世界に溶けていかない。箱の声は私が就寝したからか、さっきまでの高揚はどこへやら、ごめんなさい、と寂しく呟いたきり何も言わなかった。あるいはそれはやはり幻聴であり、私が何とか眠ろうとしていることでどこかへ消え去ったのかもしれない。
 だから、恐る恐る起きて、電気をつけてみた。第一、眠りにつくには幾分早すぎる時間だった。
「あ、起きた……大丈夫?」
 しかし箱は慣れ慣れしく声をかけてくるのである。ため息をついて私は再び読書に向かった。無視をし続ける選択を取る。
 しかしそんな私の意向は関係ないのだろう、箱は何度も何度も私に声をかけ続けてきた。気になって文を追えない。ページも進まない。ばたんと本を閉じる。神経質な音だった。
「もう、一体何なのよ、うるさいわね」
「やっと話してくれるのね! ありがとう」
 しかしこちらから何を問えばいいか、向き合ってみたというのに逆にわからなかった。全ては私の幻聴で、独り芝居に過ぎないのではないか。隣の部屋の迷惑になったらどうしよう。電話していたと嘘をつくしかないな――一瞬のうちにいろいろ考えた。
 そうしている内に会話の主導権はまず彼女に握られた。
「いきなり声をかけて、ごめんなさい。
 でも本当は機会を待ってたの。この箱が大分この部屋に馴染んできたと思うし、あなたも箱を気に入っているようだから今更捨てたりは出来ないかなあ、よし、今日声をかけようってことになったの」
「……じゃあ、ずっとあなたは箱の中にいたってことね」
 そうよ、とどこか少女らしい印象もある声はやけに自信ありげに答える。なぜか箱を開ける気にならなかったのは、外見が気に入ったということ以外に、中に何かいるということを知らない内に第六感で感じたからなのだろうか?
「それで、私はその……もっと驚くことになるし、今度こそあなたは私のことを信じないだろうなあって思うかもしれないけれど」
「今だってそんなに信じてない」
 上の空で答える。中に何があるのだろう。都市伝説で言う小さなおっさんみたいなものが入っているのだろうか?
(おっさんがこんな声なのもいやだけど)
「私は、織姫なの」
 頭の中で小さな中年男が喜んだり悲しんだり寂しがったりするところを描いていた私の耳に、それは何の意味もなさない言葉として受け止められた。
 私は織姫なの、と若干大きな声でもう一度箱は言う。織姫というイメージと中年男を並べてみて、さすがに違和感が走った。眉根を寄せる。
「は? 織姫? 七夕の?」
「そう。正確に言うと、もっとややこしいんだけど、まあまあ織姫よ」
「まあまあって」
 もっと突っ込みたい所だったが、私はぱたりと横になる。すごく真剣に話をしていたわけではないが、何だか疲れた。
 私は眠るように目を伏せる。しばらく箱は何も話さなかった。雨の音が細かく聞えてくる。扇風機は何も知らず首を回している。
「そうね。いきなりいっぺんにたくさん喋っても、混乱するのはあなたの方ね。
 また明日にするわ」
 それじゃあおやすみなさいと言うなり、箱は口を聞かなくなった。恐る恐る起き上がってみて箱を手に取ってみた。
 高価そうな藍の光沢も宝石のような白い星屑も以前と何も変わらない。これを開ければ、何かがわかるのだろうか。この中に人間がいるのだろうか。
「開けちゃだめよ!」
 わっと私は手元を滑らせてしまった。幸い箱は柔らかいベッドの上にころりと転がっていっただけで、欠けたりもしなかったしその弾みで開くこともなかった。
「おやすみなさい」
 もう一度箱は、夜の挨拶をする。本棚に戻して、私も就寝準備をすることにした。明日になれば、一度眠りにつけば、全て何事もなかったかのようになるかもしれない。
 そう思いながらも、誰かにおやすみなさいと言ってもらったことは随分久しぶりだなと同時に気付いてもいた。
 箱は海の底にいる貝のように何も言わなかった。私もさすがに、おやすみなさいとは言えなかった。


 2     
novel top

inserted by FC2 system