「もうすぐ七夕ね」

 カレンダーを七月にめくっている時、彼女はそう言った。
 無言で振り返る。彼女もしばらく無言だった。七月に入っても当然まだ梅雨は明けず、一日中雨という予報の日もある。その日もしとしとと雨音が奏でられていた。

「あのね、お願いがあるの」
 ベッドに腰かけて彼女の言葉に耳を傾けた。
「七夕、星の見えるところで、この箱を開けて欲しいの。
 勿論、晴れればだけど……なるべく、景色のいいところがいいわ」
「天に帰るんだね。彦星のところへ」
 ええ、と答える。嬉しさでいっぱいの声かと思ったがそうでもない。どこか申し訳なさそうだった。
「別にいいよ。仕事上がってからでいいよね」
 わざわざ景色のいいところまで行かなくてはいけない私の苦労を思ってのことか、それとも違うことか、その後ろめたさはありがとうという言葉にも翳って聞えた。
 そのまま私はぱたりと横たわる。おやすみなさいと箱は言うが、私は何も返さない。そのおやすみなさいもどこか寂しげだった。


 就寝準備をしていなかったので私は起き上った。そして、箱を見る。
 もう大分この部屋の風景に馴染んでしまったそれは、私の大事な話し相手だった。貧相な部屋で唯一上品なそれに眠るのは、星空のお姫様だった。
 姫には恋人もいた。彼女は恋人に逢いに、天に帰るのだ。

 途端に私は空しくなった。私は何をしているのだろう。

 この箱を開けても本当にいいものなのだろうか。もしこの箱に何も入ってなかったら、今までの彼女の声はやはり幻聴だったということになる。自分の異常が怖くなる。……だけどそれは表面上の、見せかけの、些細な、どうでもいい問題に過ぎないような気がした。
 私が本当に恐れているのは、この部屋から私ではない存在がいなくなることだった。話し相手が消えてしまうことだった。

 彼女は大好きな人のもとへ帰り、私は独り残されるのだ。

 箱をそっと掴んだ。彼女が起きないように、それを別の、紙製の箱に入れた。
 更にそれを別の箱に入れて、引き出しの中に入れた。それから何事もなかったように私は就寝の準備をし始めた。


 彼女の声は、届かなくなった。



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