そこまで行くのにかなり時間がかかったから、もう空のどこにも昼の残滓はなくなっていた。
 太陽の光のしっぽも尽き果てていき、空はどんどん群青に染まっていく。てっぺんまで登った時には完全に夜空になっていた。
 そこには眩し過ぎて見えないものは何もなく、ささやかな星の光がぽつぽつ穴を開けているだけだった。
 それでも、少し山の中に入っただけなのに、街中よりもずっと星が見える。それに驚きながら、私は鞄から箱を取り出した。
 一つ箱をあけ、もう一つ箱を開ければ、つややかな藍色の箱が現れる。

「……ちゃんと、連れてきてくれたのね」

 どこか怯えるように、彼女は言った。
「閉じ込めたりしてごめん。でもどうして閉じ込めたのかも、よくわからない」
 掌に箱を載せて、私は立ち上がった。説明が難しいんだけど、と切り出してから、彼女みたいだなと思った。
「なんか、寂しくなったの。
 だってさ、私には好きな人も付き合ってる人もいないのに、何が悲しくて代表的なカップルの縁結びみたいなことしなくちゃいけないんだと思って。急に馬鹿馬鹿しくなって」
「でも、あなたはこうしてここに連れてきてくれたわ」
 久しぶりに聞く彼女の声は、以前よりもずっと優しく、かつ大人びて聞えた。
「……後味が悪いのは好きじゃないのよ、お酒にしろなんにしろ」
「でも私が思うに、それだけじゃないわね、きっと。
 やっぱりあなたって、少し意地悪ね」
 どういう意味よとおどけて訊くが、彼女は笑うだけだった。
 たった数日間、夜をこうして過ごしていた。つい最近のことなのに、どうしてこんなに愛おしく思えるんだろう。

「ここはどこなの? 山の中?」
「うん……近くに川が流れてる。わりと有名な山。
 そんなに高くないし、歩道も整ってる。夜景が綺麗なの」
 へえ、と箱はまるで景色を見渡しているようだった。
 確かにここから見る街の夜景はなかなかのものだった。けれど私は夜空の星の方が神秘的である分、夜景より好きだった。
 それでも、街中より見えると言っても、天の川が見える程ではない。街の光が邪魔をしているのだ。
「その近くの川、女川っていうの。昔からの通称がね。
 もう一つ、男川っていうのがあって、それはもっと向こう側に流れてる」
「その川は、海で一つになるの?」
「多分。よく知らないけど」
 川のせせらぎはここまで聞えない。けれど私は耳を澄ました。水気のある空気が涼しく、山というよりは川の近くにいるようだった。
「なんかその川、織姫と彦星みたい」
 彼女が以前言っていた、完全な世界というものを想像した。

 二つの川が海で一つになる。互いに恋する二人が一つになる。
 何物にも邪魔されない世界に彼女は帰る。一年に一度だけ。

「ここのこと、もっとあなたに聞いておけばよかった」
「聞かれても、そんなに詳しくないんだけどね」
「なら、あなたのこと、もっと聞いておけばよかった」
 夜景と星を見ていた私の目線が、箱に落ちる。私は苦笑した。
「聞いてもつまんないよ」
 これ以上彼女の話を聞いていたら、そのまま箱を家に持って帰りそうだった。
 私は難なく、そっと、背中を押すようにして箱を開ける。開けるなら今しかないのだ。七夕の物語とは違うけれど、玉手箱を開けるように。

 箱の中身は何もなかった。高級そうな外見に反して、中身はごつごつとした木目が現れた、無骨なものだった。
 本当にその中に小さな人間がいるとは思っていなかったけど、それでも私は何だか愕然とした。そのまま、へたりと膝をついた。

 声が降ってきたのはその時だ。

「顔を上げて」
 声が聞こえる。懐かしい声だ。
 言われた通り上げてみた。そこにぼんやりと浮かんでいたのは私と同年代くらいの、ちょっとあどけなさが残る女性だった。
 全体的に白く、ほのかに輝き、和服とも中国の古代の服ともつかない民族衣装を纏っている。髪は結い上げていない。それも白く輝き、天の川のようだった。優しく風に靡かせている。

 ありがとう、と彼女は言う。

「あなたのこと、忘れないわ。
 あの人と再会したら、あなたの話、いっぱいする。
 ちょっと意地悪だけど優しいあなたのことを、私は忘れない」

 すっと彼女の手が私の頬に触れる。白く煌めく何かが、鱗粉のように零れては消える。それは星の欠片だろうか。
「あなたにも私のように幸せな恋が訪れるわ。きっと。私が保証する」
 微笑む彼女は友達のようであり、妹のようであり、姉のようであり、また、母のようでもあった。
 私も微笑してみせた。
「あなたのようにっていうのは勘弁ね。何もしなくなっちゃうのは困るわ」
 そんな返事が返ってくるとは思わなかったのだろう。まあと少し眉根を寄せた。想像していた通りの顔だ。

「やっぱりあなたって、ちょっと意地悪ね」

 けれどその顔はすぐに解けた。にっこり笑う顔と、白く輝く全身を見ていると、白い花のようにも見えた。
 そして彼女はさようなら、と口を動かしてすうっと夜空へ昇っていった。
 細長い逆三角の真ん中あたりを目指していく。あれは確か夏の大三角だ。あの辺りに天の川があるんだろう。
 星は見えても、天の川は見えなかった。だけど彼女の纏う白い光が私にはまだ見えていた。
 それが星の流れる川となる。私にとっての、唯一の天の川となった。



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