次の日の昼休みも俺は教室を離れて一人校内を歩く。今日は一日快晴の予報。朝は爽やかな陽光に少し涼しい風が吹いていた。昼食時、外は気持ち良く晴れ、教室内は皆の眠気を誘う暖かさに満ちていた。この調子だと五時間目の教室は皆が睡魔と戦う戦場になるだろう。でもそんなことと俺は全く関係なかった。俺は一人昨日の坊っちゃんの様子に気を揉んでいたのだから。眠気さえも無かった。
 心配事は当人を呼ぶのか、はたまた当人の元へ導かせるのか、中庭の一角で坊っちゃんと熊本先生が並んで座っているところを見つけた。距離があったから当然喋ってる内容はわからない。顔色も読み取れない。わかるのは体勢くらいだ。膝に肘をついて手に顎を載せている。何を考え何を話しているのだろう。熊本先生は何度か深い相槌も打っていた。
 多分坊っちゃんは昨日のことか、それについての悩み事を話しているのだ。
 そう察して少し気が楽になった。俺なんかより同僚の熊本先生の方が話しやすいことだってあるだろうし、年代だって近い。それで少しは落ち着けたり元気が出たりすっきりしたりするのなら、それに越したことは無い。だから俺はその場から立ち去った。
 そりゃあ、ちょっとは俺や美禰子や清さんに何か相談して欲しかった、と言う想いがないわけでもないけど。
「わっ!」
 背後からの声に一気に思考が飛んだ。肩を掴まれてしまっていて逃げられない。
「うっ、うわっ、熊本、せんせいっ」
 声で逃げなくてもいいことはわかっていたけれど、せめて後ずさりくらいはさせて欲しい。
「何だ牛込、俺と坊の話、盗み聞きでもしてたのか」
 背後から覗き込むように訊いてくる。熊本先生は坊っちゃんより背が高く体格も一回りほど違ういかつい先生だから、こんな風に近寄られては警察に身柄でも確保されたみたいだ。聞いてませんよむしろ聞けませんよ距離あるじゃないですかと委縮しながら早口で返しておく。
「坊っちゃ……松山先生は?」
「次の授業があるからって早々に帰ってったさ。牛込のことには気付いてたかどうか怪しいな」
 そうですかと俺はようやく解放された肩をちょっと撫でた。牛込もな、と熊本先生は腕を組む。俺も? 何だろう。確かに俺も次の時間に授業がある身だけど。生徒だし。
「授業中、心ここにあらずって顔をしてたもんで、先生は気になってな」
 ぽかんとした。そうだった。午前中には熊本先生の授業もあった。話を聞いて問題をこなしていたとは思うけど、正直外ばかりを見ていた。澄み渡る空を眺め、穏やかな陽の光を浴びて、ぼんやりペンを回しながら、坊っちゃんのことを考えていた。
「すいません」
「なに、内職されたり寝たりする奴よりかはましだ」
「て言うか、その、よく見てるんですね」
 侮蔑するような、ちょっと失礼な言い方だった。言ってすぐ後悔する。すいませんと顎を引っ込めた。
「教師だから当たり前だろう」
 担任だけが生徒を見てると思ったか。笑いながら先生は俺の額を突いた。
「坊やと何を話してたか、聞きたいか」
 額を押さえながら瞬く。先生は鼻から息を抜きつつ腕を組んだ。
「詳しくは話せんぞ。坊やの過去のことも聞きたいって言うんなら、やっぱりこれも話せん」
 どう答えたらいいか迷っている内に一手二手と先に回られてしまった。何となく図星を突かれた感じで決まりが悪い。話を聞いていることは聞いているがな、とまた息をつく。
「昔のことなんて、本当のことはあいつしか知らん。そうだろ。今のことにしたって、開示されていない情報がごまんとあるかも知れないじゃないか」
 その通りで、俺はただ黙って頷いた。陽の光をたっぷり含んでいるような暖かい風がすうっと辺りを流れていく。
「あいつの過去のこと、知りたかったか」
 そう訊かれると正直微妙で、俺は言葉なく首を傾けた。頷いたわけでもなければ、首を振る素振りでもない。知りたくもあるし、知らないままでもいい。
「今は、結構どうでもよくて」
 ちょっと前までは、俺は彼の過去を知りたがっていた。ひょっとすると噂に群がる無神経な奴らよりずっと無神経に、厚かましく。興味のない顔をしながら、坊っちゃんの味方でありながらそんな浅ましい気持ちをちゃっかり持っていたことに気色の悪い醜さを覚えた。
「坊っちゃん、元気ないから」
 でも今は、先生に言った通りそんなことどうでもよかった。俺が向き合っている坊っちゃんはあくまで今の坊っちゃんだった。
「何に悩んでるのかな、とか」
 確かに、過去にあった何らかが今に影響を及ぼしている可能性は否定出来なくても。
「そうだろ。何か違うだろ」
 うむうむと頷く熊本先生。今の坊やは今なんだからなと俺の気持ちと同じことを言う。
「過去なんてのは、お菓子のおまけのシール、それもダブりで出たやつみたいなもんさ」
「そ、そこまで言いますか」
「秘密は誰にだってある」
 勿論俺にもなと言いたげに片目を閉じる。ウィンクのつもりだろう。
「それが自分の昔のことでも、おかしくないだろ」
 むしろそれが普通なのかも知れない。自分から話さなければ知られることのない過去は大体、自ずから秘密になるのだから。
「牛込も、悩み多き健全な男子高校生だ。いっちょまえに秘密の一つや二つあるだろ?」
 うん? と覗き込んでくる。秘密か。そう問われて出てくるのはもはや美禰子のこと以外あり得ない。魔法のこともそうだし、美禰子への秘めた想いだってそうだ。秘めた、なんてまさしく秘密以外の何物でもない。
「坊と一緒に暮らしてる、とかな」
 そうそうそれも一応は秘密の一つか。
「って」
 ぶえっ! と思わず数歩後ずさった。冷静に秘密の一つか、なんて心中で頷いてる場合じゃない。
「せ、せんせ! 何でそれ知って!」
「何でって坊に教えてもらったんだよ」
 言われなくても真っ先に頭に浮かんでいた。あんのメイワク教師、と歯噛みする俺。何でもかんでもぱあぱあ喋るなこんちくしょう。そのうち魔法のことも喋るんじゃないだろうか。そしたらさすがにまずい。一般人に魔法を知られるペナルティって何かあるんだろうか、ああでもそうすると清さんにバレてることもアウトじゃないか。
「はっはっは、今度遊びに行こうか」
 何となくわかってるけど俺は怒りで顔を赤くしているらしく、それが大層ウケているようだ。数学の特別講義だ、と熊本先生にまで頭を撫でられる。俺の髪はわざとでも触りたくなるようなフェロモンでも出しているんだろうか。別に先生が訪ねてきてもいいけど、ワガハイは喋らなければそれでいいとして、美禰子のことはどう説明したらいいものだろう。変に誤解されると困る。
「全くもう、あの野郎」
 坊っちゃんに対しての怒りと呆れと苛立ちが頭の中をぐるぐるする。これは久しぶりの感覚だった。そうだ。大変だけど坊っちゃんはやっぱりこうでなくっちゃと笑えてきた。元気がないのなんてこっちも調子狂っちゃうし、坊っちゃんだってまいっているだろう。
「坊やのこと」
 だから早く、何とかしたい。そう思っていると熊本先生の優しい声がした。
「大事に見ててやってくれ」
 頼むなと目を細める表情も優しい。それは体格や普段の言動の印象から少し外れていて、こう言ってはなんだけれど可愛らしくもあった。坊っちゃんのことを本当に心配している。俺に何か出来ると思って、信頼してくれている。
(まるで)
 俺も六時間目の授業の準備があるんでなと、その表情に恥ずかしさを感じてかそそくさと言った態で先生は俺の前を去っていった。
 俺は坊っちゃんの何として見られているんだろう。
 そうされるに足る存在は、一般的には何と呼ぶ?
(何か、まるで)
 答えはとうに出ていた。一緒に暮らしているのだから、もはやそれは当たり前のことなのかも知れなかった。
(俺が坊っちゃんの家族みたいに、言うんだな)

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