坊っちゃんの様子が変だ。誰も敢えて口にしないけど、俺も美禰子も清さんもワガハイも、きっと思っていたに違いない。
 急に髪型を変えたとか服装をがらりと変えてきたとか言葉遣いがおかしくなったとかではない。むしろそんな変化を見たら誰しも総ツッコミとなる。そうじゃない。口にする程のことなのかどうかわからないくらいの微量な変化で、案外そう深刻じゃないのかも知れないと思っている内に言葉にするタイミングを失っている。そういうタイプの「変」だ。
 まず、見た目からわかること。ぼうっとしていることが多くなった。どこか心ここにあらずと言った調子で宙の一点を見つめている。食事中なんか特にそうだ。普段だったら清さんの絶品料理に賞賛したり笑顔が零れていたりするのに、まったくのだんまりを決め込むようにもそもそと食べるようになった。
 他にも、いつもだったら流しているテレビの番組に突っ込んだりほうと感心したり、あるいはげらげら笑ったりするのに、それもない。おかわりも全然しなくなった。美禰子もそれに影響されるようになって、おかずのお椀をすぐ引っ込めることが多くなった。食事が終わって入浴が終われば、縁側でやはりぼうっとしている。単なる考え事ならいいけど、黙り込んで夜闇を見つめているだけの眼差しは何を考えているのか全くわからない。と言うか、考え事すら無いのかもしれない。
「坊っ、ちゃん」
「うん? どうした?」
 なのにこっちが心配して声を掛けると、何だ変な風に名前区切って、とでも言いたそうな、至って普通の目を向けてくるんだからますます本心はわからない。でもそこから話は進まない。今のは猫が返事代わりに尻尾を上げただけのようなものだ。坊っちゃんは一人物思いに耽る。手には煙草だったり、缶ビールを持っている。
 孤高の大人がそこにいる。少年でもなく少女でもなく、老女でもなく猫でもない、ただ一人の大人がぽつんといた。客観的に見たら、俺達四人と一匹の中では、一番この牛込家の責任者だった。
 そんな彼に元気がないのは、やっぱりどこか心をざわつかせる。


 そんな変な坊っちゃんを意識している内に日々は進んで、中間テストも何事もなく終わってしまった。テストはどうだったと訊いてくるには訊いてきたけど、特にからかう様子もなかった。テスト勉強の時は結構しつこかったのに。
(調子狂うよホント)
 テストの返却がほどほどに終わりつつ、日常が戻ってくる中の、ある昼休み。食後の散歩でもないけれど、与次郎達と話す気分に何となくなれなくて廊下を歩く。少し眠気を感じていたから、それを散らす意味もある。
(変な噂が無くなったのはいいことなんだけど)
 俺達若者は基本的に新しいものが好きなので、そうそう古い話題にいつまでもいつかない。あんなに流布していた坊っちゃんのことを誰も口に上げなくなった。これはひょっとして本当にあの巨大ストレイシープが一枚噛んでいた可能性もあったりなかったりするかな? どうだろう。そう一人考えてあてどもなく廊下を歩く。各々の教室から賑やかな声が響き、吹奏楽部の練習の音も聴こえてくる。昼休みはそんなに長い時間でもないのに熱心だ。目に見えない音色を目と耳で追いかけていた時だった。
 ふと映した廊下の窓、その端に坊っちゃんの後ろ姿が見える。
(あれ? どうしたんだろ)
 そこは坊っちゃんがいつも隠れて煙草を吸っているところではない。かといって人目に付きやすい中庭、と言うわけでもないけれど、あまり意識の向かない、人気のない校庭の一角だった。場所変えたのかな、でもそこじゃ見つかるぞいくらなんでも。そう注意しにいくかと動き出す前に、俺の視界には第三者が映った。坊っちゃんと向き合う形になっている。
(誰だろ、あの人)
 見た目的には教師らしい。何という先生かは忘れ、何の科目か知らないが、熊本先生や坊っちゃんのように豪放磊落、あるいは飄々としている人物ではない。見るからに気弱で鈍そうだ。ついでに体も弱そう。何も知らないのに気の毒だが、生徒にいいようにあしらわれているような先生だった。いつか俺の授業も受け持つことになるだろうか、なんて暢気に思っている場合じゃなくなる。
 その先生は、あの坊っちゃんに対して一方的に何か言っている。
 いや、それよりもっと的確に言うなら。俺は微かに首を傾げた。
(怒ってる? あの人)
 そう見て取れる姿はひどく不自然に思えた。坊っちゃんの動きは読めない。表情だって見えない。何らかの身振り手振りを入れてもいいはずなのにそれも無い。どうしたんだよ坊っちゃん。視線を送るけれど、窓越しな所為か気付かない。気弱な先生の方もまくしたてる自分に興奮しているのか何なのか、俺が見ていることに気付かない。
(ああ、もう!)
 じれったい! 急いで玄関まで走り出す。靴を替えている時間ももどかしい。どうやったらあの一角に出れるのかちょっと迷うのもいらいらしてしまう。
 俺がしゃしゃり出てどうなる話でもないのはわかってる。一体何について話しているかなんて全くわからない。でも、普通じゃない坊っちゃんに、普通じゃない事態。何かまずいことが起こったら、坊っちゃんと一緒に生活する者としては穏やかじゃない。
 何より、あんな風に誰かに一方的に責められる坊っちゃんのところに、行かなくちゃならない。そこにいたい。そう願っていた。


 いろいろ頭に地図を描いてやっとたどり着く。急に走った所為で息が切れて肩を上下する。でも、呼吸が落ち着いた頃にはもう坊っちゃんもその先生の姿も見えないことが既にわかっていた。坊っちゃんのことだからまだその辺をうろうろしてるかも知れない。そう思ってしばらく辺りを歩いてみても見当たらない。腕時計を見ると始業まであと十分のところだった。授業に向かったんだろう。
(あんな風に突っかかれちゃあ、職員室にもいづらそうだな)
 あの坊っちゃんがなすすべもなく突っ立っていたのだ。それでも、心無い噂にもこれっぽっちも動じなかった鋼鉄メンタルな坊っちゃんのことだから堂々としているのかも知れないけど。唇を軽く歪めて鼻息を抜く。
(でも今の坊っちゃんは少し、おかしいから)
 心配だけど本人が見つからない以上今出来ることはない。授業もそろそろだから教室に戻ろう。そう踵を返した時だ。
(あれ?)
 生徒でもなく、坊っちゃんでも気弱先生でもない人物が二人ほど視界の端を掠めた。誰だろ、とちょっと近付いてみる。一人はすぐわかる。確か美術の野田先生だ。俺の芸術の選択科目は美術なので週に二回は彼の顔を見ている。小太りの先生で、いわゆる太鼓腹な人だ。
 そしてもう一人の方は、背がひょろりと高く、全体的に痩せぎすな男性だった。多分教師だろう。渋いワインレッドのシャツとシックな黒いネクタイ、見るからに高級そうなジャケットが教師だと言うのに気障だった。ちらりと見えるベルトのバックルがどこかで見たようなブランドのロゴ。見せびらかしてんのかな。ちょっと鼻白んでしまう。年齢は、少なくとも坊っちゃんよりは上だろう。髪はオールバックで顔立ちはそうそう悪くないから、俳優と言っても通じそうだった。でも、遠目から見る分には端正な顔立ちだけど、どことなく裏のありそうな感じではある。一言で言えば嫌味な奴だ。
 二人は何やらこそこそ話をしている。時々含みのある笑いを浮かべてはまた何かを話す。気になるけど一歩近づいたら気付かれてしまう。ただ見ていることしか出来なかった。そして、見ているだけでもわかることは。
(何となく、感じ悪いな)
 自然と口がへの字に歪んでしまう。その二人が坊っちゃんや俺について話しているってわけじゃないのに。いけ好かない奴、と思ってしまった所為だろう。あんな先生いたかな。内心首を傾げる。坊っちゃんに怒っていたあの人がわからなかったのと同じだ。
「君」
 やばい、見ないふりしてたのに目が合ってしまった。思った時には遅く、早速声を掛けられてしまった。
「何だねじろじろ見て」
 何でもない人を装うことも出来ず会釈で済まそう、そそくさと出ていこうとしたけどあちらが許さない。すいません、と縮こまって小声で返す。
「もうすぐ授業が始まるじゃないか」
 ほら行った行った、とばかりに手を払われた。言われなくても行くっての。むかつきが顔に出るのを抑えて背を向けた。その瞬間に始業五分前のチャイムが鳴る。その音に紛れるように野田先生と赤シャツの男が嫌らしく笑った気配を、俺は確かに背中で感じた。
 あの日の黒板の落書きを思い出すような、そんな笑い。
 どうしてだろう。ここにもう坊っちゃんはいないのに。

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