その日、坊っちゃんが帰宅してからも俺は何も聞き出せないでいた。見た感じ何も変わってはいなかったけど、元気がないところも相変わらずだった。あの先生と言い合っているところを、内容はわからずとも俺に見られたと知ったら、ちょっとは反応を見せるだろうか。
 風呂からあがって、空いたよと坊っちゃんを呼びに行く。縁側で煙草を吸いながらやっぱりぼうっとしていた。煙草はちょうど吸い終わったところで、もう一本吸ってから、と言葉もなく一本取り出している。でもライターの火がなかなかつかない。
「持ってこよっか」
「いや」
 いいさと人差し指をぴんと立てた。蝋燭を見立てたように指先に灯が生まれ、煙草に火を移す。ああそういえばこの人は初対面の時もこんな風に魔法を使っていたっけなと息をつこうとした時だった。
 その炎が、中華鍋で豪勢に炒め物をしているかのように面白い具合に膨らんだのは。
「うわっ!」
 咄嗟に手刀のように手を振り下ろしていた。のけ反った俺が見たのは青い光と共に放たれる水飛沫。それは坊っちゃんの爆発した炎を瞬時に包んですっかり消していた。坊っちゃんの指先と足下がびしょ濡れになっている。でも仕方がない。
「もう! 何してんだよいきなり!」
 坊っちゃんは驚いたのかきょとんとしている。驚かされたのはこっちの方だ。
「そんな風に魔法使うなよっ。たまたま見えてたら、ボヤだって思われるだろ」
「ああ、すまん。でもお前もなかなか勢いのいい水鉄砲が撃てるようになったな」
 おもちゃで言うとピストルがバズーカになったってところだなとけらけら笑う。
「そりゃどうも。皮肉かよ」
 唇を不満げに尖らす俺に坊っちゃんは煙草を一度味わってから微笑した。
「何だか魔法を使っていたくってな」
 どこか寂しさのあるそれに、口は緩やかに尖りを解く。魔法を使っていたい? 内心首を傾げた。美禰子なら何か言うかも知れない。
「最近はあの羊も、ちょっとナリを潜めてるだろ」
 お蔭で平和な夜が過ごせている最近だった。だからこそ坊っちゃんのおかしさが目立ったのだ。
「なんかな、炎を見たいんだよ」
 だったらライターでもアロマキャンドルでも何でも点ければいいじゃないか。そう心で突っ込んだ傍から坊っちゃんは指先に火を灯していた。
「そんなこと、言って」
 季節はまだ大分早いけど、蛍みたいだ。
「くれぐれも火事とか起こさないでよね。放火とか、絶対承知しねえ」
 あるいは蛍じゃなく、人魂か。
 そんな風に言うのは大袈裟かも知れないけれど、自分の指先を、そこに浮かぶ炎を見つめるだけであんなに寂しそうな、遠くに憧れを覚えたような顔を人は浮かべるだろうか。何だか怖くなって、あと寝煙草とかもさ、とどこか俺は慌てて、少しおどけたように付け加えた。
「それでこの家燃えたら、俺はともかくまずワガハイが絶対怒る、と思う」
「馬鹿言え。俺はこう見えても教師だぞ」
 放火なんてするか犯罪だとばかりにくすくす笑う。そう見えて教師だから心配してンの、と俺も笑った。だけど笑みは長く続かなくて、坊っちゃんはふっと表情を消してまた煙草を吸った。今度は深く深く。所在無く俺は近くの柱に背を預けた。
 煙草も過度に嗜んでるようだけど、最近は夜遅くまで部屋で一人お酒も呑んでるらしい。缶ビールや缶酎ハイの減りが前に比べて早いとこっそり清さんが呟いていたのだ。煙草はともかく、お酒って言うのはよくわからないけど楽しくなる為にあるものじゃないんだろうか。それなのに坊っちゃんはちっとも楽しそうじゃない。
 今だって、寂しいと儚げとかより、正直虚ろと言った方がしっくりくるような横顔を浮かべている。その顔に、どうしてか全く真逆な表情が不意に被って見えた。いつか自分の血を見て、笑った時の坊っちゃんのあの顔が。
 何で。どうして。
 ぶる、と震える。湯冷めの震えとは違うそれに苦みのある唾がじわりと口内に広がった。どうにも出来ない不安がぐるぐる体中を巡り始めていく。恐怖が俺の背後ににじり寄ってくる。安心を脅かそうと笑っている。
 坊っちゃんがあんな顔をする理由。思い当たる節はたったの一つ。
(あの先生との言い争い)
 噂の時でさえもこんなに酷い状況じゃなかった。やっぱりそれだけ、堪えているんだ。言い争いと言ったけれど、一方的に何かを言われていただけだったことも思うと、坊っちゃんは自分に非があると思っている。何かしらの罪悪感を突かれているんだ。
 それが多分、坊っちゃんが思う以上にショックだったんだろう。
(こんなに空っぽになっちゃうなんて)
 煙草の紫煙の霞みに、横顔はなお虚ろに見える。
(あの美禰子みたいだ)
 そう思ってしまうことも怖かった。俺を取り巻く二人の明るい、俺をいい意味で振り回す人物がそんな風に変わってしまうことは、この世の何もかもが嘘で、幻想で、悪意に満ちていると叩きつけられていくようだった。
 だから俺は目を伏せる。見ないようにする。
 でもそれでいいんだろうか。
「三四郎」
 伏せていた顔を上げる。呼んだ坊っちゃんはしかし、こっちを見てはいない。
「お前にはこの炎は何色に見える」
 何の用事かと思ったら、左手の人差し指が灯す火を見せてそんなことを問う。思わず首を傾げた。心理テストや引っ掛け問題とも思えない。
「オレンジ、かな」
 だから素直に見たままを答えた。大体の人は俺と同じか、赤か黄色と言った答えだろう。そうか、と坊っちゃんの返事はたったそれだけ。返しに困る。何のつもりと訊こうとしたらふっとその火は消されてしまった。
 変なことを訊いてすまんなと苦笑したり茶化したりすることもない。ただ空白なだけの時間が生まれてしまう。チャンスだった。それでも、舌が言葉を打とうかどうか躊躇している。
 思い切って、昼間のことを訊こうか。
 それとも、何にも言わないでただ励まそうか。
 どうしよう。こういう時どうすればいい? 友達に対してのようにすればいい? でも坊っちゃんは、仲はいいけれど決して友達と言うわけじゃない。俺の先生で、年上で大人で、俺よりずっといろんなことを経験してきて、それで。
 そんな風に一人思考の沼で迷っていた時だった。
 ぽふっ、と、量の多い、洗いざらしに近い髪の毛が軽く押される。押してくる奴なんて一人だけ。この家で俺より身長の高い男。
 坊っちゃんの顔を俺はぽかんとして見上げる形になる。僅かに彼は微笑んだだけだ。
「風呂ってくら」
 ひらひら手を振ってのんびりと彼は浴室へ向かっていった。まただ、と俺は髪に触れながら呟く。
(また、先に行かれちゃった)
 どう言う風にすればいいか迷っていただけで、励まそうとしたのは事実だった。でもそんな俺の気持ちさえもあの人はするりするりと避けていく。
 心配するなと言葉なく微笑むのは別にいい。だけどそうすることで俺のこの気持ちをまるで無いもののようにされるのはやっぱり悲しかったし、ますます心配が募る。髪を拭くタオルの端をぎゅっと握る。
(坊っちゃんには)
 魔法の炎が揺れていたところをふと眺めた。炎の熱が文字通り名残のように少しは残っているかもしれない。
 あんな質問をしたくらいだ。答えは他にもある。人の数だけある。きっと想いの数だけある
(あの炎)
 一体、何色に見えていたんだろう。


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