ところが事態は思わぬ方向に舵を取る。
「おい。銭湯に行くぞ」
 それは翌日の夕食時、突然坊っちゃんが宣言した。
「せん?」
「とー?」
「そうだ。銭湯だ」
 戦う方の戦闘じゃないぞ、と互いの匂いがする程近距離に坊っちゃんは顔を近付けてきた。なんなんだよ気色悪い、とのけ反って数歩尻で後ずさり。とー? と返したきり美禰子の方もぽかんとしている。
「銭湯って、風呂あんじゃん」
 行儀悪いが箸で洗面所の方を指した。しかし坊っちゃんはノンノンと首を振る。
「どうも前の習慣が疼き出してな……大衆浴場が俺を呼んでいる」
「坊っちゃんの方が行きたいのか銭湯の方が呼んでんのかどっちなの」
「どっちも。相思相愛だ」
 そういえば前の噂によるとこの人は銭湯通いだった。あのあばら家だ、入浴施設はなかったのだろう。さっさと準備するんだぞと言うだけ言って坊っちゃんはてきぱき夕食に手を付け始めた。俺と美禰子は目を見合わせた。
 ワガハイは猫だから銭湯なんてもってのほかとちょっと不機嫌に尻尾を振った。普通の猫と同じように入浴は嫌いと見える。清さんはと言うと見ているドラマがあって行けないそうだ。楽しんできてくださいまし、と柔和な笑みを贈る彼女はこの銭湯が坊っちゃんの気分転換になるとちゃんとわかっているようだ。しかし俺と美禰子もまた気分転換プランを、まだ何も決まっていなくても持ち掛けるつもりだったのだ。
「せっかくいろいろ考えたのに」
 月並みだけどピクニックとか、遊園地に行くとか、カラオケに行くとかと指折り挙げる。カラオケはfにもあるんだろうか。
「まだ何も、具体的に考えてはいなかったけどさ」
「それは帰ったら改めて話せばいいんじゃね?」
 そう返すと存外落ち込んではいなかったようで、すぐにそうだね、と笑う。
「また次の機会なんて沢山あるもんね!」
 その通りだと俺も笑い返した。えっへへーと急に美禰子はくるりと身を躍らせる。
「私、銭湯って行ってみたかったんだー」
「へえ、fには無えの?」
「ううん、あるけど、この間テレビでやってた映画で見て、Fの銭湯ってどんなんなんだろうなあって興味出ちゃって」
「そう変わんないんじゃね?」
 じゃあ準備するねえとにこにこしながら美禰子は部屋へぱたぱた駆けていった。湯上り美禰子か、と必然的に導き出されるものを想像してしまうのは思春期の男子だから仕方がない。でもよく考えたら家でもしょっちゅう見かけている。色気ってのがまず足りないから、そんなに焦ったり、変に意識しないんだよな、と納得するけどこれを美禰子が知ったらきっとかんかんに怒るだろう。でも、家の風呂じゃない外での入浴によるしっとりとした湯上り美禰子と言うのは、想像するだけできゅんとくる。
(って、じゃないじゃない)
 一人だけ煩悩に酔い痴れているところじゃなかった。
(いきなりどうしたんだろ、坊っちゃん)
 視線を上げて一人ちょっと考える。でも、確かに唐突ではあるけれど、これと言って不審な感じはしない。
(坊っちゃんも気分転換したかったってことだろうなあ)
 客観的に見てそうとしか判断出来なかった。一人閉じこもって深みに嵌ってどんどん憂鬱になっていくよりはずっといいことじゃないか。少なくとも暗い縁側で炎を燃やしたり煙草を吸ったりお酒を呑んだくれているよりは遥かに健康的だ。いろいろ勘繰る俺の方がどうかしている。
 そう考えると俺もちょっと楽になってきた。広い風呂は本当に久々だった。三四郎はやくーと支度の終わった美禰子の声が聞こえてきたから、俺は急いで準備を始めた。


 坊っちゃんが愛用していた銭湯は思っていたほど遠くなかった。いわゆるスーパー銭湯の類らしいけれど、純和風な外見はどこか年季が入っていて昔よく見かけたであろう銭湯にきっと近いと思う。前の家のことや普段の袴着のこともあるから今更だけど、坊っちゃんはレトロ趣味なんだ。趣味で職場の服を決めるのは社会人として問題だけど。一体この辺どう折り合いつけてるんだ?
 入口で美禰子と別れた。暖簾をくぐって少し先へ行けば、もう老いも若きも仲良く素っ裸になっている。さっさと脱衣して、暖かい湯の羽衣を纏いたい。がらがらと擦り硝子の戸を引く。眼前に広がるのは、白い靄の湯浴み場。思ったよりも人がいて、ごろごろとしている様子は諺にもあるように、本当に芋のようだ。
「お前、銭湯に来たことあるのか」
「中学の頃、友達と」
 与次郎の家に泊まったことがある。水代もかかるし、わりと大人数だし、迷惑がかかるということで近所の銭湯に出かけたのだった。
「ほお、意外だな。結構なボンボンかと思ってたが」
「そっちこそ」
「人前で裸なんて、汚らわしい! なーんて言うかと」
 人を何だと思ってんだよと苦笑した。このからかいの調子、紛れもない、俺の良く知る坊っちゃんだ。坊っちゃんはどこか自嘲的に笑ってざぶんと湯に浸った。湯は少し熱く、肌と毛穴という毛穴にびりびりと迫る。この感覚が大人には堪らないとみた。
 しばらく、湯を布団のようにして、上唇の辺りまで身を浸す。隣には坊っちゃんが何をするでもなく、暖かさが肌を労わってくれる空間全てに身を委ね、弛緩している。
(あれ?)
 その時初めて気が付いたが、彼の右手の親指の付け根に、痣のような傷跡があった。
「ねえ坊っちゃん」
「何だ?」
「その親指の傷」
 ああ、と何てことないようにほれと手を向けた。一見しただけでわかる。痣のように見えるくらい深い古傷だ。大分体に馴染んでいたけど、それが初めて出来た時は相当の痛さだっただろう。
「昔綺麗なナイフを貰ったことがあってな」
「うん」
「見せびらかしてたらな、一人がこう言ったんだ。光ることには光ってるが、装飾用のものだ、切れそうにもない。俺はむかっとしてこう返したんだ。何でも切って見せるってな」
「それで、まさか」
「そう。君の指を切ってみろって言われたんで」
 このざまさ、とひらひら右手を振る。唖然とした。何とも坊っちゃんらしいエピソードだ。当たり前だけどこの人は昔から坊っちゃんだったんだ。言われたことや望まれたことを、それこそまさしく馬鹿なまでにそのままやってしまう。それで周囲を騒然とさせて自分はあくまで泰然としてる。何事にも動かされない。ホントばっかじゃねえの、と熱さに包まれてぼんやり微笑んだ。
 そんな風に我が道を往く坊っちゃんが、俺は嫌いじゃなかった。
(でも)
 微笑みはすぐ熱さに溶けた。でも今はそうじゃない。ちょっと違っている。何かが少しずつ狂い始めている。
(いけない。せっかく気分転換しに来たのに)
 それを今は忘れるべきなのに、俺って奴は。のぼせれば変なこと考えないかなともう少し深く身を湯船に沈めた。坊っちゃんは熱い湯にご機嫌なようで、まったりゆったり溶け込んでいる。
 桶の落ちる音や、子供達がぎゃあぎゃあ言い合う音や、水の流れる音、シャワーの音、全てが暖かく、くぐもって聞こえてくる。熱さにふわふわしていく俺には、汚く余計な響きは聞こえてこなくなる。かえって無音になるそこで、真実が現れてくる。
 おかしいな、白い湯気が覆うこんな所で、逆に見えないだろうに。
「ねえ、坊っちゃん……」
 湯船がいよいよ、本物の布団のような感触に変化してきた。つまり俺は、夢と現実の境界で揺れ動いている。まどろみは湯に溶けて、俺の体に染み込み、肌と髪を艶めかせる。
「むかし」
 だからこれは、寝言のような一言。
「何があったの」
 俺の意識の外で、思わずはみ出してしまった言葉。
 でもきっと本音そのもの。
「ここに来る前に」
 だって俺は誰より知っている。
 俺が坊っちゃんの過去を、秘密を知りたいと言うことを。
「なに、が」
 自分のことだ。自分が一番知っている。
 昔何があったの。
 ここに来る前に何が。
 自分の言葉をぼんやり繰り返した途端、はっとして俺は目が覚めたように、上体を動かした。ぬくいさざ波が生まれる。まるで悪い夢から飛び起きた感覚そのものだ。湯の布団から脱出し、子供が親に教わったように、肩まで湯につかるようにする。
(何、思わず言っちゃってんだよ、俺)
 訊けなかったこと。訊いてはいけなかったこと。俺達と坊っちゃんを隔てる扉を開ける鍵でもあった。
「あ、の、坊っちゃん。その」
「どうしてそんなことを訊く」
 周りでは同じような音が続いていた。昨日も明日も明後日も続くようなのんびりとしたトーン。それが起こす催眠術の所為なのか、まさかその質問を坊っちゃんが継続させるとは思わなかった。
「テストの、前に」
 思い出すのはあの黒板の落書きのこと。あの時去来した、坊っちゃんの哀しげな眼差し。
「流れてた噂、とか」
 今までずっと黙っていたあの噂のことをいよいよ口にしてしまった。けれど坊っちゃんは無言だった。それこそあの授業の時のように。
 過去に女性と何かがあった? 誰かのものである女性を奪おうとした? そしてどうなった? いいや、違う。そうじゃない。そんなんじゃない。そんなことを言いたいんじゃない。知りたいわけでもない。
(それより、もっと大事な)
 言葉より先に頭に浮かんでくる。先生との言い争い。縁側での炎。いつもとちょっと違う様子。坊っちゃんが坊っちゃんとして、きちんと笑えない毎日。
 いつもと違う。それは苦しい方向に向いている。
 その源が彼の過去にある気がした。
「知って」
 今、どうして、何があって、坊っちゃんは少しおかしいの。
「知って何になる」
 そんな俺の言葉達がその凛とした一言で一掃された。坊っちゃんは自嘲めいた笑みをほんの少しだけ浮かべているだけ。
「俺の過去を暴いてでも知りたいことは何だ」
 けれど、刀の切っ先と見紛うその薄く笑んだ横顔は銭湯にひどく不釣り合いで、確かな戦慄を覚えた。
「そして何がしたい」
 あり得ない音が頭の片隅で響く。ちゃぷんと、一滴が冷たい水に堕ち、凍てつく音。湯船がそう、氷結する。
 俺は言葉に詰まった。汗が首を絞めていく。
 何がしたい? そうじゃない。
 三四郎。お前は何も出来ないんだ。
「のぼせるな。三四郎、背中流せ」
 場は一気に氷解した。坊っちゃんが湯船から出ようと立ち上がれば、一緒に湯霧も立つ。もう一度、夢から覚めたように思えた。見上げれば笑った坊っちゃんがいる。俺を突き放したつもりなどまるでない坊っちゃんが。いつもと変わらないようでいて、左右反転したかのような坊っちゃんが。
「残念だけど」
 だから俺もそれに付き合うことにする。一瞬で舞台は切り替わった。現在が鮮やかに過去に変わって、まるで今まで狐狸に化かされていた気分に陥ったけれど、そう、夢は覚めた。これはあくまで現実だ。
「俺は髪から洗うんだよ」
 だからあくまで、俺はいつも通りの笑みを浮かべた。そう、いつも通り。たとえ突き放されても、坊っちゃんのもとから離れない。何があっても味方でいよう。表情に、そんな意味を込めた。


 もしもこの時、うっかり口を滑らせて過去のことについて訊かなかったら、俺達はこの後どんなことになっていたのか予想がつかない。サイコロの目はいい方に出たのか、悪い方に出たのか。でもそれはあくまで、もしもの話だ。


    5
せんせいのまほう 11につづく

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