深夜にぱちり、と目が覚めた。眠気が自然に引いていくような目覚めだった。これで朝だったら一日の始まりだなと大儀そうに上体を起こして身支度するのだけど、携帯電話で時刻を確認すると午前二時頃と言う有様だ。いわゆる丑三つ刻。夜更かしさんでもいい加減そろそろ眠りに就くと言う時間に目が覚めてしまったのもおかしな話だ。しばらく暗闇の中じっとしていたけれど、眠気はどこか遠く遊びにでも出かけたらしい。俺は上体をむくりと起こす。
 喉の渇きを覚えて一階に降りていくと居間の明かりがついていた。
「あ」
 覗き込んだら美禰子がいる。ちょうどDVDデッキからディスクを取り出しているところだった。
「何だ、またドラマ見てたのかよ」
「だってー、どうしてもこのエピソードもう一回見ておきたかったんだもん」
 ちょっと唇を尖らせる美禰子。髪を解いて、それを二つ結びにしている。姿は勿論寝間着で、見慣れたものではあるけれど、寝間着で互いに長くいたことはそうそうない。それにこんな深夜は初めてだ。いつもと違う感じがちょっとどきどきさせた。
「三四郎こそ、どしたの」
「たまたま。何か起きちゃって」
 喉が渇いたからと話すと待ってて、と美禰子は水を持って来てくれた。グラスは二つ、美禰子も飲むんだろう。
「ワガハイいないな」
「深夜の猫集会じゃない?」
 なんかちょっと怖そー、とくすくす笑い合う。魔法を使う機会がないと坊っちゃんがぼやいていたように、ここ数日ストレイシープの反応もなく、穏やかな日々を過ごしていた。特にこんな風に静かにゆっくり過ごせる夜は初めてだ。幾分、夜が深すぎるけど。
 でも俺達がずっと向かい合って、時計がチクタク進む音を黙って聴いているのはそれだけが理由じゃない。
 坊っちゃんも起きてきたりはしないだろうか。
 俺も美禰子もそんなことをぼんやり思っている。
「坊っちゃん、さ」
 うん、と美禰子は小さく頷く。元気ないよねと申し訳程度に微笑むけれど、すぐ萎んだ。美禰子にどれだけのことを話せるだろう。前の噂も本当のことは話せていない。先生と言い争っていたこと、縁側でのこと、熊本先生の言葉、いろいろ浮かんでくる。
「なんか、こう言ったら悪いけど」
 でもまず、表に出したことは。
「どこか行っちゃいそうで、なんか、怖い」
 ずっとずっとぐるぐる体を巡っていた言い知れぬ不安だった。言葉にしたらどっしりと重い。でもその分少しだけ胸が軽くなった。どこか遠くをぼんやり見つめる坊っちゃんと霞がかった儚さが現実味を増してもいた。うん、と美禰子も頷く。苦笑していた。そう思っていたのは私だけじゃなかったんだ、と言うように。
「私も、思ってた」
 その通りの言葉を言いながら膝を抱える。
「まるで」
 美禰子は何に喩えようと思ったのか、わからない。ぼんやり宙を見つめしばらく言葉を探していたようだったけど、軽く頭を振って飲み込まれてしまった。
「とにかく何となく怖いの」
 今度は俺がうんと頷いた。俺は胡坐を掻いて足首を掴んだ。
「あ、あのさ。那美姉と初めて会った時、何かおかしかったよね、坊っちゃん」
「ああ、うん」
「あの時、那美姉に見惚れてるんじゃない、なんてからかったけどさ」
 ほら、と美禰子はちょっと身を乗り出した。
「確か前に、三四郎が話してくれたでしょ。噂のこと。彼女と同棲してるけど、元彼がどうのって」
 オブラートに包んだ、と言うか本当のことを伏せに伏せたやつだ。あれは結局根も葉もないやつだったみたいだけどと美禰子は訝しむように眉を寄せた。
「もしかしてその彼女さん、本当にどこかにいて、その人と最近いろいろあって、別れちゃうところで」
「う、うん?」
「でね、その彼女さん那美姉にすっごいそっくりで、坊っちゃんびっくりして」
 勢いついて喋り出す美禰子だけど、何故か言ってからしまった、と言うように口を閉じた。おどおどとして身も引く。
「そ、それで動揺して、なんかぼんやりしちゃってるんじゃないか、なあって」
「じゃ、じゃあ、何だ? 坊っちゃんが那美さんに惚れたってこと」
 そうするとまたややこしい三角関係案件だ。いや、那美さんは旦那さんがいるから四角関係で、なおかつまた略奪愛だの何だのの話になる。ないかあ、と美禰子はナシナシ! と手を振った。
「でも、那美姉に会った時何となく様子がおかしかったのは確かだよね」
 そうだよなと腕を組んでみた。確かどころでなく、あの日以降少しずつ坊っちゃんの様子が変わり始めていた。
「美禰子、あのさ」
 那美さんと旦那さんを巻き込んだややこしい昼ドラ展開は無いだろうと言う暗黙の前提の上、俺はこの間見かけた言い争いのことを手短に伝えた。ほえ、と美禰子も目を丸くしている。その人と、それから他の人と、何かあったのかなあ、と美禰子は俯いた。
「坊っちゃん、大人って言うこともあるけど」
 ぺたん、と腕を枕にするようにテーブルに美禰子は寝そべる。
「そのこととかも、今の悩みのこととかも話せないほど、私達って」
 目をゆっくり閉じていくから、眠るように見えた。
「仲、良くないの、かな」
 そんなことない。小さく呟いて俺は首を振った。
「何でもかんでも話せってわけじゃない。そんな権利、俺達にはないからな」
「でも、私達じゃ駄目なのかな」
 美禰子の伏せた視線の先にあるのは掛け時計。
「ちょっとは……何か力になれそう、なんだけど」
 チクタク、チクタクと静かに響く時計の音は家全体の鼓動のようだった。
「時間過ぎるの……待つしかないのかな」
 ふみゅん、と動物の鳴き声のように溜息をついた。
「駄目だね私。お姉ちゃんと過ごしたことはあっても、男の人ってなると」
「健三さんいるじゃん」
「健三さんとは違うよ」
 そうだよな、お兄さんじゃなくて旦那さんだもんな。心の中だけでそっと返した。
「三四郎の方こそ、お兄さんいるんでしょ」
 むくりと上体を起こしつつ訊く美禰子。ダメダメ、と俺は首をゆるりと振った。
「俺、兄貴達とも親父とも全然接点ねえんだよ。こういうこと、まるで初めてだ」
 悪いこと訊いた? と美禰子は表情で訊いている。全然、とまた首を振る。視界に入ったから俺も時計を見た。もうそろそろ二時半を指す頃で、年季の入った古時計だったら三十分の時報がボーンと一つなる頃だ。
「よおっし」
 ちょっと黙り込んでいた美禰子は突然明るい声を上げる。
「皆でどっか行こ? ね!」
「美禰子?」
「ずっとお家の中にいたんじゃダメだよっ、気分転換っ」
 ぴょんっと飛び跳ねるように立ち上がる。生き生きした動きに、思わず微笑んでいた。
「事情も何もわかんない私達が出来ることって、それくらいしかないっしょ?」
 て言うかそれこそが私達のすることっ! と意気揚々と腕を振りあげた。それもそうかもな、と口角はますます上がる。こんなことなら、大型連休の時にどこか行くんだった。
「行楽日和も続いてるし、出掛けなきゃ損だ」
「でしょでしょ? それじゃ、早速明日の夜ご飯の時にでも持ち掛けてみるよっ、どっかいいスポットないか探してみるね!」
 満開の笑顔で美禰子はやるぞ! とばかりにまたまた腕を振りあげた。おうよ、と俺もまだ何も始まっていないのに胸を張った。
 そうだ、まだ何も決まっていないけれど、それが何になるともわからないけど、きっといいことに導いてくれる何かを動かし始めることは、考えるだけでとても気持ちのいいものだった。
 表面上は平気を装っていても本当は塞ぎこんでいる坊っちゃんの心に、この暖かい風が吹きこめばいい。希望の煌めきを持ったそれは、善いもののはずだから。


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