佐々木蝶々は何者なのか、ということを知るには直接彼から訊くしかなかった。私は彼と久しぶりに会った時、髪飾りを作りながらそれを思った。段々、髪飾りは完成に近づいていく。
完成したら、彼とはもう会う機会が無いかもしれない。
彼に初めて出会ってから何回目かの金曜日、私は少し作りかけの髪飾りをいじりながら、蝶々に訊いた。
「ねえ、蝶々。もし、嫌じゃなかったら、訊きたいことがあるの」
「なに?」
そう何気なく答える彼の声は、陽だまりのように、優しい心地がした。
「その……あなたは……佐々木蝶々は何者なのか、話して欲しい」
蝶々の切れ長の目は驚いたように少し開かれて私を見つめた。
やっぱり、嫌なんだろう。相手が精神体だとか幽霊だとかは関係ない――すぐにごめんなさい、やっぱりいい、と言おうとしたが蝶々のほうが早かった。
「僕はね」
蝶々はゆっくり、話し始めた。彼の周りに漂う、綿毛の様に軽くふわふわしている風に思えるのに、けれど儚げで、どこか重たい雰囲気が私の口を閉じていく気がした。私もそっと耳を澄ます。
「――人間ではない。人間から出てくる精神体や魂や、幽霊みたいなものでもない。言うなら……おばけみたいなものだね」
「え? おばけと幽霊って……違うものなの?」
「僕だってよく知らないけど、でも僕の存在はとにかく人間が元ではないんだ」
しかし私の目に映る彼の姿はれっきとした人間だった。水色の髪というのは地毛では生えてこないだろうけど、言葉もしぐさも何もかもが人間のものだった。
「ウワサとは違うわ」
「そうなのかい? ただこの髪飾りを持って、そして何故か、この学校にいた」
私の目の前に、製作途中のものと並べておいてある、水色の羽根の方の髪飾りをとる。私はちらりと彼の目を見る。彼はどこかに疑問を抱いている、というように眉を曲げ、最初に会った時のような虚ろな目で髪飾りを見ているのだった。
いつも、と静かに言い、話を再開した。
「いつも、人に触れることが出来なかった。現れるとみんな、この髪飾りに触れていって逃げていった。
そして僕は消えていった。また違う日に現れても、その繰り返し――誰にも、触れなかった。
握手だって、出来なかったさ」
髪飾りを持っていない方の手がぎゅっと握りこぶしを作った。じゃあ口づけなんて無理も甚だしかっただろう。けれど口に出すのが恥ずかしかったから言わないでいた。
「でも」
蝶々は、こぶしを作っている方の手をゆっくり開いた。爪の跡がついている。
「羽音が、初めてだった」
「……そう、なの?」
私達二人は少しだけ目を合わせた。蝶々はじっと私を見つめていたかったかもしれないが、私はすぐ目を逸らす。
「髪飾りをしっかり掴んだのも、僕が追っかけたのも、言葉を発したのも、……ふれることが出来たのも、全部、君が初めてだ」
「追っかけたって……あなた変な力で先回りしたじゃない」
そうだけど、と蝶々は苦笑した。そして他人の――人じゃないけれど――様々な「初めて」を私が起こしたという不思議さを思った。よくわからなくて、底の見えない水の中を漂う感じがした。
「もうすぐ、完成する? これ」
蝶々は私の作っている方の髪飾りを指差す。私は彼から目を離しその髪飾りを見つめる。
今やっている作業を片付けて、あとは彩色などの細かい作業が終われば完成する。完成すれば蝶々のものと完全に瓜二つになるだろう。
幻想の中にいた髪飾りは、ついにこの現実に姿を現す――私は頷いた。
「……じゃあ、これで本当にさよならなんだな」
すごく、小さな声でそう言った。私はそれを聞き逃さなかったけど、どういうことだと、食い下がろうともしなかった。
つまりは、会うのが終わりだと、聞くのがきっと、怖かった。
でも、今だってこういう風に会えているのだから、完成したからといって会えなくなるわけが無いと私は信じている。
でも、会って蝶々と何をするのだ。
会って、何を?
私は再び、作業を続けた。そうしながら、ぽつぽつと、頭に浮かんできたことを意識する。
蝶々と、楽しい会話をしているわけじゃない。密会でもないし、最後に握手するだけで、それ以上のことはしない。ただ髪飾りを見せてもらっているだけで、私は彼の髪飾りと自分の髪飾り製作に情熱を向けているべきだ。
会って何をするわけでもない。
ただそこに、私と蝶々がいる。
誰にもふれることが出来なかった人間でないモノが、唯一ふれることが出来た私といるだけだ。
ただそれだけだ。
考えてみればそれだけのことなのに、私はどうしてか胸が締め付けられた。
私は思い出す。彼が私をしっかりと見始めた時。
私の手を優しく、そして何かに驚きながら見つめていた時。
肩にかかる水色の髪、彼の綺麗なつくりの、顔や体のあらゆるところ。隣にいる佐々木蝶々という、人間のようで人間で無いモノの手のひらが持つ、熱を。
私の手は止まっていた。蝶々は立ち上がる。
「もう、今日は行くよ」
無言で、私も立ち上がった。うつむいていた。いろんなことを思い出して、蝶々の顔を少しでも捉えることができなかった。
「羽音」
お願いがある、と彼は続けた。それはさっきの言葉のように小さな声だった。私と彼にしか届かない、秘密の声の様だった。
「今日、一度だけでいいから……君を、抱きしめさせてくれないか」
「……抱きしめる?」
そりゃ、いつも握手ばっかりだったから……と私は思った。それに、今日はきっと辛いことを喋らせたのだろうし……私は顔をあげた。
蝶々の、心を奪われるような端正な顔立ちが目に映る。
いや、きっと私は出逢った時から彼の美しさに、心を奪われていたんだ。
彼の熱に、彼の優しい声に、気付かない内に。
あの日最後に胸に残った鼓動の名を、初めて知る。
私は頷いた。緊張で体が強張った。ふわりと彼が覆いかぶさるように、私を包み込んだ。
私の緊張は次第にほぐれ、私は目を閉じた。段々、彼の熱を自由に感じられるようになった。握手の時の、手にこもり、だけどすぐに逃げていく熱とは違い、私を抱きしめている蝶々からの熱は、私を芯まで暖めて、すぐに逃げていかない。
私が目を開けると、またいつもの様に蝶々は消えていった。覚めていたくない夢から覚めてしまったような……そんな気がした。