蝶々の髪飾り


 数学Bの授業が終わり、休み時間になった。次は移動教室ではないし、私は趣味と部活で作っている刺繍を鞄から出した。休み時間を喜ぶ楽しそうな会話が、ただの雑音となって私の周りを囲んでいた。黙々と縫っていると、隣のクラスにいる友達のナミがやってきて、私の机にちょこんとあごを乗せて、こう言ってきた。

「ねえねえ羽音(はのん)ちゃん。佐々木蝶々って知ってる?」

 言い終えてナミは小首を傾げた。

「そんな名前の町長さんは知らない」

 縫い物に没頭しているから、そっけなく返した。
 いつも、妹や子供のように私にまとわりついてくるナミに、私はそういうそっけない返事をしてわざとナミをいじめる。でも、今日はそれ以上にそっけなかった。刺繍に集中したかった。

「ちがーうよ! 町の長じゃなくて、バタフライの蝶々! いま、羽音ちゃんが縫ってるやつだよ」

「そんな変な名前の人間は知らない」

「羽音ちゃん蝶々好きでしょ」

「そうだけど」

 確かに私の縫っている刺繍は、蝶の模様が沢山入ったハンカチである。そして私とナミの視界に入るもの――私のペンケース、下敷き、鞄についたチャーム、携帯電話のストラップ――それらは全て、蝶の柄、蝶モチーフだった。

 そう、私は蝶々のグッズに目がない。雑貨屋やアクセサリーショップに入ると探すものはまず蝶々、買う物も蝶々、身につけるのも蝶々だった。あまりに多いので、一度家族から、蝶がうじゃうじゃ体に止まってるみたいだ、と言われたことがある。それ以来少し自粛はしているものの、私の蝶々グッズへの愛は未だ尽きたことはない。

 市販されているものに、自分が納得するものがないなら自分で作ってしまえ、という無謀な信念をもって、主に刺繍作品を作る手芸部と、絵を描くほかにアクセサリーや焼き物も作る美術部に掛け持ちで入ったのも実はこの為だったりする。

 だから、私の家族や友達は、私がどうしようもないほど――つまりバカなほど蝶々好きということは、最低知っているはずの事柄なのだ。

「羽音ちゃん。その佐々木蝶々はね……人間のようで人間じゃないんだよ」

「そりゃ、蝶ならね」

「うーん! そうじゃないのそうじゃないの。これはねー、この学校の怪談っていうかウワサっていうか都市伝説っていうかそんなものなんだよ!」

 怪談もウワサも都市伝説もどうでもいいよ。が、口に出すのも面倒なので黙っていたら、ナミは身振り手振りを加えて解説してくれた。

 佐々木蝶々。

 女の名前のようだが、その人物は男で、放課後、人気のないところに現れ、女子生徒を襲い、精気を口づけによって奪うのだという。

 蝶々は実はこの学校の生徒なのだが、ある日事故により植物状態になってしまった。復活のため、彼は幽体離脱のような現象で現れ、若々しい女子生徒の精気を奪うのだという。

「ほら! 一年のとき、三組に一個だけ使ってない机あったでしょ!
 あれが実は佐々木蝶々のなんだよー!」

「たまたまだと思うけど。ていうか植物状態で? 幽体離脱っぽく? なんかおかしくない?」

「私そのあたりよくわかんなーい」

「あとさ、別に私達の学校に限定しなくてもよくない?
 もっと若いギャルなんか街にごろごろしてるじゃん」

「もー羽音ちゃん、学校っていう限定がいいんだよー!
 で、精気を奪われた女の子達はヘロヘロになって病院送りになっちゃうんだよ!
 怖いよね怖いよね?」

 ナミがはやし立ててくるため、私は付き合ってられないよと思いつつ苦笑いをして聞き流す。

「でね、その佐々木蝶々から逃れるためにはね、そいつの付けてる髪飾りにタッチすればいいんだって」

「髪飾り?」

 私は真面目に耳を澄ました。男がつけるようなものと思えなかったからだ。ナミは更に私が真面目に聞く理由を口にした。

「うん。蝶々の髪飾りなんだって。蝶々の蝶々の髪飾りなんだって」

「ややこしい。でも、蝶々?」

 ナミは元気よく頷いた。ヘアピンみたいなものかもしれないけどね、と付け加えながら。

「へえ……」

 蝶の形、ということで私は何度か頷いた。

私はふと、その髪飾りを見てみたいと思った。

 そもそも私が蝶々好きになったのは、髪飾りが原因だったのだ。
 幼稚園の頃くらいから大事にしていた髪飾りを失くしてしまい、それを探すためにいろんな蝶々グッズを見て回るうち、私はすっかり蝶々好きになっていたのだった。
 その髪飾りは、子供の頃の記憶だからやたらキラキラと豪華に見えていたが、実際はちゃっちいものだったに違いない。けれど、私にはそれがものすごく大切だった。
 どこにも同じものはない、私だけのものだった。
 もしかしたら、私だけに見えていて、幻想の世界に存在していたものだったのかもしれない。

 もちろんその蝶々の髪飾りがあの、私だけのものであった髪飾りと同じものであるはずないけれど――私は興味を持った。

 だけど、そんな佐々木蝶々とかいう存在は所詮ウワサ話にしか生きていない。それに気付くと興味は途端に萎えた。刺繍を続ける気もなくなった。

「それで先輩や後輩たちは見事にちゅーの危機を乗り越えているのだ!」

「ふーん」

 やる気と興味のない返事を私は返す。刺繍道具を片付けて次の授業の準備をしながら、私はナミを見た。ナミはじっと私を見ていた。

「なに?」

「興味持ったかなーって」

「だってそんなの迷信っていうか、つくり話でしょ。持ってないない」

 と私は手を振る。確かに一瞬だけその髪飾りに興味を持ったが、佐々木蝶々などいるはずが無いのだから、無い。しばらくしてナミが小さい声で「蝶々好きな羽音ちゃんが佐々木蝶々にラブとかになったら面白いと思ったのに」と言ったのを私は聞き逃さなかった。

「あんた、私が干からびて死んでもいいって思ってるのね」

「えっ! やだなあ羽音ちゃん私そんなこと思ってナイヨ」

「注射してやる」

 刺繍に使っていた針で私はナミを本気でおどかすとナミはきゃあと高い声を上げながら一目散に逃げていった。同時に、チャイムが鳴った。




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