「やった……やってしまっちゃった」

 逃げられたし、髪飾りも奪えた。冷静に考えるとやってることは泥棒と変わらない。でも、この際どうでもいいや! と私は階段をダッシュで駆け下りる。明るいところに出て、髪飾りがどんなものか確認しようと私はとにかく走った。だだっと音がする。踊り場に出た時にちらりと目を音のする方にやると、あの男子が――蝶々が追ってくる。

「待って!」

「っ!」

 声が響く。校内は相変わらず暗く、やけに大きくその声は聞こえた。闇の中でその声しか音が与えられていないようだった。私は慌てて、転がるように階段を下りた。
 そこは一階で、少し行って左に曲がれば玄関に出れるのに、心臓をばくばくと活発に鳴らしていた私はとにかく慌てていたせいで、そして多分髪飾りを手に入れた興奮と、そして追っ手から逃れようとする……夢の中でしか味わえないような緊迫感のせいで、私は玄関に出ずそのまま走り続けた。
 明るいところ、明るいところ、私は走る。だけどどこも暗い。別の階段が見えてきた。そこの蛍光灯がついている。そこだ! と走った。

 踊り場にその蛍光灯は光っている。そこまで登って、はあっ、と息をついた。蝶々は追ってこない。やっぱり消えたんだ――激しく息をしながらそう思って顔をあげた。

ひっ、と上ずった声が飛び出す。

まぎれもない、私の声。表す感情は驚きと恐怖だ。

 彼が――佐々木蝶々がいる。
 私を追いかけていて、結局消えたと思っていた。――もういないと思っていたのに。

「その髪飾り、返して」

「ち、ち、ちょっと、ちょっと待って! 謝るから、ちょっとだけ待って!」

 手で彼を制し、そして私は髪飾りをじっくり見た。

 その髪飾りは――驚くくらい、失くした髪飾りと同じ造形だった。ただ色は違う。私の持っていたものは羽根がピンク色だったけど、これは水色だった。

「違う……」

 色が違うだけで、ショックだった。やっぱり、失くしたものと同じものはない、もうどこにもなくなってしまったんだと思い、ため息をついた。そしてその髪飾りの持ち主を見る。

 佐々木蝶々の髪も、その羽根のように水色だったので驚いた。
 かつらや染めた髪とは違い、風景に馴染んでいた。風景といってもそれは学校の階段や灰色の壁で味気ないものだったが、それでも馴染む。変に思えないからすごい。目つきは厳しかったが、形や睫毛は初めて見たときと同じ様に綺麗で、肌の色は薄くて、男の子だとは少し思えなかった。

「もう、いいだろう」

 彼は手を差し出す。

「それを返してくれ」

 私は、その髪飾りが同じものではない、というショックも大きかったが、もう一度見てみると、やはり手元に置いておきたい、身に付けたいとみるみる欲が出てきた。

「これ、どうしても返さなくちゃだめ?」

「それが無いと、僕は帰れない」

「そう……よね」

 苦笑しつつ、私は髪飾りと、蝶々を交互に見た。

 ――作ってしまえばいい。

 納得できないなら、自分で作ってしまえ、と私は蝶グッズを作り始めたことを思い出す。

「ねえ、あなた佐々木蝶々よね!」

「……そう呼ばれてる」

 一応確認を取ってみた。きちんと返してくれるのが何だかおかしい。

「私、二年の和泉羽音っていうんだけど……この髪飾りと同じものを作りたい。それで……しばらく、貸してほしいんだけど」

「それもだめ」

「……じゃあ」

 羽の部分が、蛍光灯の弱い光にあたっている。弱い光源だが、髪飾りの羽は――私にとっては懐かしく輝いていた。髪飾りを眺めながら考え、口にした。

「もう一度会うことは?」

 蝶々は私を見つめ、しばらく間を置いて返事をした。

「――出来る」

 私はやった、と軽く声に出して笑った。

「だけどそう何回も来れない」

「じゃあ、毎週……えーと、火曜日と金曜日!」

 こくんと蝶々は頷いた。

「だけど、そのかわり……」

 びくりと体が強張る。ナミによると蝶々は口づけをしてくるという。口づけを要求されるんだ……私は唇を押さえる。押さえてどうにもなるものじゃないけれど。しかし、彼の要求は口づけとは遠いものだった。

「君と、握手がしたい」

「握手……? そんなもので、いいの?」

 蝶々はじっと私を見て頷いた。そして返してくれと彼から手が伸びる。私は髪飾りをその手に置いて、彼が髪飾りを付ける一部始終を見る。女の子と変わらない手つきで彼は飾りを付けた。彼の水色の髪に、水色の蝶々がとまったように見えた。
 その動作が色っぽく、私は出会った時や追いかけられた時とは別の胸の鼓動を覚えた。

 再び、彼が手を出す。私は右手を出して、握手を交わす。

 存在を確かめるように彼は強く私の手を握り、私の前からすうっと、火の粉が消えるように消えていった。

 私はぼうっとして、まだ彼の熱の残る手を見つめていた。

 夢……? と私は胸に手を置く。今まで感じてきた様々な感情よりも儚くて脆い何かがある。それは、忘れてしまった夜の夢に想いを馳せるのに、よく似ている。

 でも、私の掌にあるその熱こそが、この出逢いと、そして蝶々が夢ではない証だった。




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