放課後、その休み時間と同じ様に、私は刺繍を続けていた。
家に帰ると、パソコンやテレビなどの娯楽の方に意識が逸れてしまって、刺繍や工作に集中できないから、自作の蝶グッズを作るのはもっぱら学校でだった。掛け持ちで美術部にも所属しているので、美術室で私は黙々と縫っていた。美術部にある暖房が暖かいのが主な理由だった。
さすがに疲れてきて、さらに外もずいぶん暗かったから、私は今日の作業を終えた。
気付けば美術室に残っている生徒は私一人だった。勉強とかにもこれだけ集中できるといいんだけどなあ、と呟きながら後片付けをする。縫っている途中のハンカチや刺繍道具を小さな鞄に入れて、教室の机にかけてこようと美術室を出た。
廊下も、まるで外の暗さをにじませたように真っ暗だ。まだ生徒の残っている教室が、暖かみのある光をその暗い道に漏らしている。楽しそうな喋り声は外の暗さを全然意識していないようだった。明日は土曜日だから喋っている子達は遊びの計画でも立てて、その延長で話をしているのだろう。
私も、早く帰ってテレビでも見よう。鞄をかけ終え、同じ道を引き返した。
美術室に戻って、忘れ物が無いか確認し、一応戸締りも確認して再び廊下に出た。一番近くの階段を渡ろうと、右に曲がる。
何歩か歩いて、私はふと立ち止まった。
誰かが、後ろにいる気がした。
そういえば美術室を出るときに誰かが少し離れた左側に立っていた気がする。誰だろう。先生かな。
そうね、顧問の先生かも、と私は振り返った。
しかしそこにいたのは先生ではなかった。
背の高い、男子生徒だった。
彼は髪が女子生徒の様に長く、廊下は暗かったが、次第にその色も黒くないことがわかった。不思議だという印象が、私の中に芽生える。彼はじっとこちらを見ている。不思議というより、何だか変だなと私もじっと見ていたので、気まずくなった。目を逸らす。
その男子はこちらにゆらり、と一歩迫った。そう、ゆらり、と、まるで草花が風に揺れるように音も無く私の方に、一歩また一歩とやってくる。私は何だか怖くなった。心臓が激しく収縮しているのも十分意識できた。急いで帰ろう、そう思ったときにはもう彼は私の目の前に来ていた。確かな距離があったはずなのに、それを無視したようにあっという間に私のそばに来ていた。
気が動転して、目をあちこちにやっている内に彼と目が合う。
綺麗な目だった。暗くても何故かわかる。切れ長の目の形、虚ろな視線、長い睫毛、筋の通った鼻。形のよい顔、肩にゆるくかかる髪。
あらゆる要素が、私の頭の中の「綺麗」とか、「美しい」とかの言葉が用意されている場所を通っていく。
そして、私は彼の髪に付いている何かに気付いた。蝶々の形をしている。
蝶々の、髪飾りだ。
――佐々木蝶々から逃れるためにはね、そいつの付けてる髪飾りにタッチすればいいんだって。
――蝶々の髪飾りなんだって。
佐々木蝶々!
この男子は佐々木蝶々だ、私はとにかくそう思った。その存在がでたらめだ、嘘だ、と思っていたのは本当だけど、今、その瞬間、髪飾りを見つけた瞬間はその存在が一番に当てはまったのだ。
さらに言うと髪飾りは、私がかつて失くした髪飾りにどこか似ていた。真っ暗な中でそれでもなんとかわかるのは形だけだったから、細部まで似ているだろうか、色はどうだろうかと確かめたかった。ふれたかった。
彼――蝶々らしき彼はすうーっと顔を私に近づけてくる。そういえば、口づけによって精気を奪うとかナミは言ってたっけ。後ずさりをする。
逃げたいけれど、……髪飾りが気になる。どんな感じの髪飾りなんだろう……。でもそれにふれると彼は消えてしまうのだった。髪飾りも消えてしまう。
どうしよう、どうしよう……綺麗な、だけど虚ろな目をした蝶々は迫ってくる。精気が奪われるとか病院送りとかのそれ以前に口づけは生理的にも精神的にも嫌だから逃げたいけど、髪飾りは見てみたい。
ええい。消えてもいいから、ふれるだけはしてみよう。失くしたあの髪飾りとはきっと違うものだろうけど、似ていると思っただけでも、触ってみたい。
私は目を凝らして手を伸ばした。
そして、掴んだ。しかし、彼は消えない。私はそれを意識する前に、ばちんと彼の髪飾りを外した。彼の髪の毛が触れた感触が、確かに肌に起こる。
彼は消えていない。私の手の中には髪飾りがある。
虚ろな彼の目が、覚醒したように、虚ろにではなく、しっかりと私を見つめ始める。
私は彼を見て、髪飾りを見た。ウワサと違い彼が消えないことにようやく違和感を持ち始めた。
「なんで……」
蝶々が声を発する。それほど低くない、男にしては高い声だった。自分が消えないことを私と同じ様に意外に思っているようだった。私は手の内にあるもう一度髪飾りを見て、そして――その場から逃げ出した。