血の姫



 それからは無言だった。怖いほどに優しく、波の音がカーレンを包んでいるだけだった。幾度か、波の奏でる旋律が彼女を、そしてスピカを撫でた時、女――マーラは、にっと唇が裂けるように、嗤った。
「久し振りね、カーレン」
 波の静けさの中、その艶やかな声は澄み切って聞こえる。マーラは、近付いてくる。
 すかさずスピカはカーレンの隣まで駆け、力なく垂れ下がったその左手を乱暴に掴み自分のもとに引き寄せた。
 はずみで、砂浜に膝をついていたカーレンは立ち上がる。風で葉や塵芥が舞い上がるように、力無く軽く。
 そしてカーレンは、叫ぶ。

「あなた――あなた、お姉ちゃんなんかじゃ、無い!」

 カーレンは全身が震えていた。声までも震えていた。しかしマーラは心底愉快そうに目を細めるばかりだ。
「何言ってるの。私はマーラ……」
 マーラは進みを止める。赤い目を持つ者同士の距離は十分に縮まった。
 マーラが手を伸ばせば、その病的に白い掌がカーレンの肌に触れる程に、恐怖の実体は二人のすぐそばにあった。
「だって……でも、だって……」
 震えがスピカに伝わる。――抱きしめてやれない。肩さえ抱けない。ただ手を繋ぐしか、スピカには出来なかった。
 ――それほどまでに、スピカもすっかり体を恐怖にやられてしまっていた。そして、今までマーラに対し恐怖を感じなかったカーレンはその分だけ、今、感じているのだろう。十何年分のそれを。
「カーレンに近づくのはおよし」
 老女の声が突如、この恐怖の世界に割って入ってきた。スピカが以前耳にしたことのある声で、カーレンの震えが一時、止む。
「おばあちゃん!」
 カーレンはスピカから手を離し振り向く。スピカも振り向く。小柄で、カーレンと同じように赤い刺青を背負った老婆が強い目でこちらを見ていた。
「あんたと最初にあった時から何か虫のすかない奴だと、ずっと思ってたんだよ」
 少しずつ歩を進め、少しだけ唇を歪めたマーラに迫っていく。カーレンの祖母である彼女・ハーツもまた巫女だ。スピカ達の感じる恐怖を察知し、なおかつ怯まずにいた。
「カーレン……よくお聞き。
 何度もあんたはこいつに対して何やかや言うと、あんたらしくもなく歯向かったりしていたけどね……」
 老母は李白達が立っている辺りで立ち止まり、よく通る声でカーレンに伝えた。
「そいつはね、あんたが姉なんて呼んではいけないような――」
 一度目を伏せ、そして言う。

「何かの怨霊さね」
「違うよ!」
 カーレンは大声で否定する。

「そんなことないよ! そんな、こと……」
 叫びは沈黙へ姿を変えていく。カーレンの身にざわざわ起こる、得体の知れない、しかし自分を滅ぼそう、傷めようとしている恐怖が――今にも、カーレンを射殺してしまいそうな恐怖が、彼女の口を塞いでいく。
 怨霊と呼ばれた姉に、自分の顔を見せられない。
 スピカは、恐る恐るマーラの方を振り返ろうとした時、マーラは突如語りかける。

「獅子宮さんと処女宮さんは、気付いているんでしょう?」
 目も口も嗤ってはいたが、戯れに繰り出された言葉ではない。

「カーレンの痣のことを」

 スピカの脳裏に甦る。以前この火の島の浜辺で、そしてつい先刻プリンセスパレスで二人が話したことが、目まぐるしく駆けていく。
「あざ?」
 花火が疑問を呈した。それにはオーレが答えた。オーレの顔色は善くなってはおらず、むしろ悪化していた。ますます何かに脅えている。無理もないだろう。マーラがいるのだ。
「位置がね――カーレン君のは、位置が真逆なんだよ。僕の考えが正しければ、下腹部にあるべきで――」
「私が呪ったの」
 マーラはオーレの声を鋭利な刃物で切るように止めた。狂ったように目は開かれ、口が斬り裂かれたように彼女は嗤っていた。
「私が赤の姫と黒の姫の痣を逆転させたの」
 そして彼女はカーレンに向かって何かを放った。カーレンは身を震わせ一歩後ずさる。砂を少し被ったそれは――銀色に鈍く輝く小刀だった。

「私を殺しなさい」

 耳を疑うようなことを、平然と言う。

「な……なんで」
 カーレンでなくとも問いかけたい。自らを殺せという怨霊があるものか。
 不気味な嗤いをいつの間にか消していたマーラは冷たく繰り返す。
「私を、殺しなさい」
 そして恐怖の源であるかのような赤い目を少し、伏せた。
「私を殺さなければ痣は動かないわよ」
 次にその赤い目が開かれた時――再びカーレンやスピカに恐怖の洪水が押し寄せた。

「痣が元に戻らなければ、あの忌々しい太陽の姫の復活はない!」
 マーラが叫びきったと同時に真っ先に駆けだしたのは太望と花火だった。

「カーレンさんが、殺さなくてもいいはずじゃ」
「俺達が仕留めればいい」

 やめて! とカーレンが叫んだのが早いか、太望の拳が振り上がるのが早いか、花火の刀が抜かれるのが早いか――スピカにはわからなかった。


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